毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
「今は昔のこんなこと」(2)
2007年7月15日の記事に、佐藤愛子「今は昔のこんなこと」を読んだ感想を記した。実はこの際、この本の中で取り上げられた、今ではあまり使われなくなった言葉についての記述があまりに面白かったので、抜粋したくなって準備をしておいたのだが、どういうわけか投稿してなかったのを思い出したので、足りない分を補って以下に載せてみようと思う。
腰巻・・短い(膝下あたりまでの)晒の布に二本の紐がついていて、腰から下をぴったり包み込んでウエストのところで紐を結ぶ。その上に赤とか桃色とか華やかな色の絹を巻くが、これは足首の上あたりまであって裾よけとか蹴出しという。その上に長襦袢を着ると裾が重なって、何重にも腰と腹は守られている。そういう仕組みになっていた。
蚊帳・・蚊帳の中に入るには心得というものがあった。立ったまま無造作に入ってはならなかった。まず蚊帳の裾にしゃがんで団扇でパタパタと周りの蚊を追い払ってから、まるで穴にでも入るように小さくなってさっとす早くもぐり込まなければならない。
アッパッパ・・木綿の布地を簡単に裁ち切って、寸法も格好も考えずにずん胴の筒状にして、それに小さな袖をつけ、胸もとは丸くくっただけの、その名の通りカンタンに作られた服である。
押し売り・・押し売りの資格としては第一に人にいやな感じを与える面相。第二はダミ声。第三は垢じんでくたびれた服装。第四は何ごとにも平気でいる鈍感さ、しつこさ。それに加えてペラペラしゃべりつづける、威しの才能。
五右エ門風呂・・黒い鉄の釜型の浴槽で、底は煮炊きするお釜と同様、丸みを帯びていて、入る時には底に底板を嵌めて入る。底板は釜(浴槽)の蓋も兼ねていて、湯面に浮いている。
居候(いそうろう)・・玄関脇の六畳にはいつ覗いてもゴロゴロしている男たちがいたが、その中でいつも暇そうにしているのが居候で、立ち働いているのが書生ですねん、と下働きのねえやであるみよやが教えてくれた。
火鉢(ひばち)・・桐の火鉢は品があり、彫などほどこしてある唐金の火鉢はどっしり重々しかった。朱塗りの手焙りはなまめかしく、大ぶりの陶器の安物は子供らがとり囲んで手をかざしたり、餅を焼いたりしていた。
あーらいやだ、オホホホホ・・女の方も口もとの締りのなさはたしなみのなさ、つつしみのなさを計るバロメーターのようになっていて、それゆえにこそ笑う時は大口を開けずにホホホと笑ったのである。
ステテコ・・ステテコには何ともいえない愛嬌がある。ざっくばらんな合理主義だ。暑いなあ、たまらん、上脱いでステテコで行こ!
乳当(ちちあて)・・生徒の間ではおチチの大きさなど、誰も問題にしていなかった。胸はペタンと「真直」というのが凛々しく颯爽としてよかったのだ。だからチチアテをしている人たちはそれを恥ずべきことのように思って、人目に触れないように気を遣っていたのかもしれない。
褌(ふんどし)・・真白な晒で下半身をキリリと締め上げた男の褌は老若を問わず力が漲って見るからに勇ましく、胴長短足という日本人特有の体型にぴったり似合っていて、ご面相は問わず凛々しく美しく見えたものだ。
釣瓶井戸(つるべいど)・・井戸の釣瓶が水に落ちる音は、冬は鋭く、春はやさしく、春夏秋冬、季節季節で違って聞こえたものだ。釣瓶で汲み上げた水をバケツや水桶に空ける音も、初冬から厳冬への移りかわりが感じられた。
鍛冶屋(かじや)・・そうか、孫は鍛冶屋を知らないのか。鍛冶屋というのは、焼いた鉄を打って刀とか鎌とか、鍬、鋤、鉈なんかを作る人のことだと教えた。
つけ文・・つけ文は男から女につけるもので、女が男に手紙を書くことはまずなかった。つけ文には男の青春が詰まっている。若い女が「たしなみ」という教育に押し込まれていた時代の青年は、女への憧れ、恋情、欲望をもてあまして懊悩を重ねていたのである。
後家(ごけ)・・近代になって「未亡人」という言葉が、「後家」にとって代わった。「後家」という言葉は「タバコ屋の後家さん」とか「酒屋の後家」などと、親しみ易く、気らくな感じで使われるが、少し高級で上品な階級のお方を後家呼ばわりするのは失礼だというような気持ちから、「未亡人」という言葉が生まれたのかもしれない。
おぼこ・・かつて年頃の娘の育ちのよさをいうのに「おぼこ」という言葉があった。おぼことは産子(ウブコ)が転じておぼこになったという説があるが、生まれてそのままの穢れのない初々しいお嬢さんという意味である。
蠅いらず・・蠅叩きでは追っつかないので食物を蠅から守るために「蠅いらず」が考え出された。乳児用の幌蚊帳を小さくしたもので、それを膳の上の料理にかぶせて蠅を防いだのだ。しかしそれでは膳の上の皿茶碗しか守れない。そこで「蠅取紙」が生まれた。
円タク・・タクシーが一円均一、「円タク」という通称で客を呼んだ。私の遠い記憶では、その頃のタクシーは、運転手の左横に「助手」が乗っていた。そこが今も「助手席」という名称になっている。
出合茶屋・・江戸の昔、料理茶屋が出合茶屋になり、出合茶屋はから待合、待合から温泉マーク、温泉マークからラブホテル、ラブホテルからモーテルへ。これも万物進化の軌跡のひとつである。
縁側・・まことに縁側というものは、日本人の暮しになくてはならない空間だった。おばあさんも猫も、お父さんも子供も拭き掃除のお母さんも、誰もいなくなると、縁側は傷だらけの古びた姿で静かに横たわって、誰かがくるのを待っている。
カンカン帽・・ストローハットは日本へ来てカンカン帽になった。そして植木等に代表されるオッサンたちに愛用されるようになった。1930年代の日本――殊に大阪方面ではそこいら中にステテコにカンカン帽のオッサンがいた。
モダンガール・・女優をやめて家庭に入り、贅肉がつき始めた頃、何を思ったか母は洋服をあつらえた。薄いグレイのサテン地の、いやにテカテカ光るワンピースだった。それは母の太肉(ふとりじし)の胴廻りにあまりにぴったり作られていて、父は一目見るなり、「ヘッ!」と吐き出して横を向いた。
人絹・・人絹とは人造絹糸の略である。蚕の繭から取った生糸で織った布が本モノの絹織物。見たところは絹のようだが、手にとるとペラペラと軽いのが人絹である。そこで軽薄才子は「人絹野郎」といってバカにされたものだ。
腎虚・・腎虚とは「房事過度によって起る衰弱死」のことで、「安土桃山時代からの淫靡な社会相にかぶれて酒池肉林の快楽に耽り、あたら有望な武人がこの病のために生命を短縮した」ということだ。
花柳病・・「花柳病」とは性病のことで梅毒、淋病に代表される。「花柳界」といえば中国でいう花街柳港からとったもので華やかなイメージの言葉である。だが、その華やかな世界は「梅毒、淋病」といった難病の巣窟でもあったのだ。
煙管・・女性が用いた長煙管は吸口と雁首をつなぐ部分が二、三十センチあった。その管の長い部分を羅宇というが、煙はそこをゆっくり通って吸口に流れてくる。羅宇が長い分、煙の濃さ(ニコチン)は薄められて口当たりがやわらかになったのかもしれない。男性は短くて太いものを使った。
親孝行・・私には四人の不良兄がいたが、よくこんなことをいっていた。
「世間じゃオレらのことを親不幸だっていうけどさ、しょっちゅう心配したり怒ったりしているおかげで、親父はいつまでも元気なんだ。安心させてみろ、いっぺんにモウロクするよ。だからオレたちは親孝行しているのさ」
オドシ教育・・よくもまあ、そんな他愛もない「オドシ教育」を真に受けていたものだと思うが、そんなオドシが積み重なって、いつしか社会に生きる基礎が身についていったのかもしれない。
どら息子・・「あすこの息子はとにかくどらで」と人からいわれるようになるまでには、どらなりの習練、修行――気前のよさ、口説のうまさ、欺しの術、話の面白さ、太っ腹ぷりなどなどの切磋琢磨があったにちがいない。
巡査・・巡査が持っている権力はその背後にある国家権力であって、巡査そのものに権力があったわけではない。だが、巡査自身は「社会公共の安寧秩序を守る身」という意識から、己に権力があると思いこんでむやみに威張った。
弊衣破帽・・薄汚れた白線の入った学生帽、くたびれた紺絣。よれよれの小倉の袴。黒鼻緒のほお歯の下駄、それを履いた素足を踏んばって胸を張り、蛮声はり上げて歌う、
「嗚呼玉杯に 花うけて・・・」
夜這い・・戸の開け方、入り方、畳の歩き方、這い方、夜具の中への入り方、逃げ方。それらをマスターし、根、勘、努力の三つが揃って何の何がしといわれる「範士」の資格を得る(誰がその資格を与えるのかは聞きもらした)。
盥・・盥というものは実に重宝なもので、産湯に使われるだけではない。夏は冷たい井戸水を満たして西瓜を冷やすこともあったし、子供が獲ってきた魚を泳がせたり、水あそび、行水などにも使った。内風呂はなし、銭湯へ行くのは金がかかるというような庶民の暮らしでは、おとなも子供も盥の行水で汗を流したのだ。
良妻賢母・・ある女子高校で国語の時間に「良妻賢母」という字を書かせたところ、「料裁健母」と書いた生徒が多かったという。その話を聞いた我々はみな一様に笑い、
「まあねえ、そういう時代なのねえ、今は」
と改めて慨嘆したのであった。日本女性の鑑であった「良妻賢母」は実態がなくなるのと一緒に言葉もなくなったことを改めて実感したのであった。
焚火・・そのうち「焚き火ってなに?」と訊く子供が増えてくる。もしかしたらマンションが林立する都会の子供は、「垣根って?」というようになるかもしれない。
恥と恥かしがり・・男が恥意識にがんじがらめになっていた頃、女の方もむやみに「恥かしがり」だった。(中略)
男の恥意識が消失したのと共に女の恥かしがりも消滅した。お尻まる見えのミニスカートも平気、おヘソを出して街中を歩いても得意顔・・。
腰巻・・短い(膝下あたりまでの)晒の布に二本の紐がついていて、腰から下をぴったり包み込んでウエストのところで紐を結ぶ。その上に赤とか桃色とか華やかな色の絹を巻くが、これは足首の上あたりまであって裾よけとか蹴出しという。その上に長襦袢を着ると裾が重なって、何重にも腰と腹は守られている。そういう仕組みになっていた。
蚊帳・・蚊帳の中に入るには心得というものがあった。立ったまま無造作に入ってはならなかった。まず蚊帳の裾にしゃがんで団扇でパタパタと周りの蚊を追い払ってから、まるで穴にでも入るように小さくなってさっとす早くもぐり込まなければならない。
アッパッパ・・木綿の布地を簡単に裁ち切って、寸法も格好も考えずにずん胴の筒状にして、それに小さな袖をつけ、胸もとは丸くくっただけの、その名の通りカンタンに作られた服である。
押し売り・・押し売りの資格としては第一に人にいやな感じを与える面相。第二はダミ声。第三は垢じんでくたびれた服装。第四は何ごとにも平気でいる鈍感さ、しつこさ。それに加えてペラペラしゃべりつづける、威しの才能。
五右エ門風呂・・黒い鉄の釜型の浴槽で、底は煮炊きするお釜と同様、丸みを帯びていて、入る時には底に底板を嵌めて入る。底板は釜(浴槽)の蓋も兼ねていて、湯面に浮いている。
居候(いそうろう)・・玄関脇の六畳にはいつ覗いてもゴロゴロしている男たちがいたが、その中でいつも暇そうにしているのが居候で、立ち働いているのが書生ですねん、と下働きのねえやであるみよやが教えてくれた。
火鉢(ひばち)・・桐の火鉢は品があり、彫などほどこしてある唐金の火鉢はどっしり重々しかった。朱塗りの手焙りはなまめかしく、大ぶりの陶器の安物は子供らがとり囲んで手をかざしたり、餅を焼いたりしていた。
あーらいやだ、オホホホホ・・女の方も口もとの締りのなさはたしなみのなさ、つつしみのなさを計るバロメーターのようになっていて、それゆえにこそ笑う時は大口を開けずにホホホと笑ったのである。
ステテコ・・ステテコには何ともいえない愛嬌がある。ざっくばらんな合理主義だ。暑いなあ、たまらん、上脱いでステテコで行こ!
乳当(ちちあて)・・生徒の間ではおチチの大きさなど、誰も問題にしていなかった。胸はペタンと「真直」というのが凛々しく颯爽としてよかったのだ。だからチチアテをしている人たちはそれを恥ずべきことのように思って、人目に触れないように気を遣っていたのかもしれない。
褌(ふんどし)・・真白な晒で下半身をキリリと締め上げた男の褌は老若を問わず力が漲って見るからに勇ましく、胴長短足という日本人特有の体型にぴったり似合っていて、ご面相は問わず凛々しく美しく見えたものだ。
釣瓶井戸(つるべいど)・・井戸の釣瓶が水に落ちる音は、冬は鋭く、春はやさしく、春夏秋冬、季節季節で違って聞こえたものだ。釣瓶で汲み上げた水をバケツや水桶に空ける音も、初冬から厳冬への移りかわりが感じられた。
鍛冶屋(かじや)・・そうか、孫は鍛冶屋を知らないのか。鍛冶屋というのは、焼いた鉄を打って刀とか鎌とか、鍬、鋤、鉈なんかを作る人のことだと教えた。
つけ文・・つけ文は男から女につけるもので、女が男に手紙を書くことはまずなかった。つけ文には男の青春が詰まっている。若い女が「たしなみ」という教育に押し込まれていた時代の青年は、女への憧れ、恋情、欲望をもてあまして懊悩を重ねていたのである。
後家(ごけ)・・近代になって「未亡人」という言葉が、「後家」にとって代わった。「後家」という言葉は「タバコ屋の後家さん」とか「酒屋の後家」などと、親しみ易く、気らくな感じで使われるが、少し高級で上品な階級のお方を後家呼ばわりするのは失礼だというような気持ちから、「未亡人」という言葉が生まれたのかもしれない。
おぼこ・・かつて年頃の娘の育ちのよさをいうのに「おぼこ」という言葉があった。おぼことは産子(ウブコ)が転じておぼこになったという説があるが、生まれてそのままの穢れのない初々しいお嬢さんという意味である。
蠅いらず・・蠅叩きでは追っつかないので食物を蠅から守るために「蠅いらず」が考え出された。乳児用の幌蚊帳を小さくしたもので、それを膳の上の料理にかぶせて蠅を防いだのだ。しかしそれでは膳の上の皿茶碗しか守れない。そこで「蠅取紙」が生まれた。
円タク・・タクシーが一円均一、「円タク」という通称で客を呼んだ。私の遠い記憶では、その頃のタクシーは、運転手の左横に「助手」が乗っていた。そこが今も「助手席」という名称になっている。
出合茶屋・・江戸の昔、料理茶屋が出合茶屋になり、出合茶屋はから待合、待合から温泉マーク、温泉マークからラブホテル、ラブホテルからモーテルへ。これも万物進化の軌跡のひとつである。
縁側・・まことに縁側というものは、日本人の暮しになくてはならない空間だった。おばあさんも猫も、お父さんも子供も拭き掃除のお母さんも、誰もいなくなると、縁側は傷だらけの古びた姿で静かに横たわって、誰かがくるのを待っている。
カンカン帽・・ストローハットは日本へ来てカンカン帽になった。そして植木等に代表されるオッサンたちに愛用されるようになった。1930年代の日本――殊に大阪方面ではそこいら中にステテコにカンカン帽のオッサンがいた。
モダンガール・・女優をやめて家庭に入り、贅肉がつき始めた頃、何を思ったか母は洋服をあつらえた。薄いグレイのサテン地の、いやにテカテカ光るワンピースだった。それは母の太肉(ふとりじし)の胴廻りにあまりにぴったり作られていて、父は一目見るなり、「ヘッ!」と吐き出して横を向いた。
人絹・・人絹とは人造絹糸の略である。蚕の繭から取った生糸で織った布が本モノの絹織物。見たところは絹のようだが、手にとるとペラペラと軽いのが人絹である。そこで軽薄才子は「人絹野郎」といってバカにされたものだ。
腎虚・・腎虚とは「房事過度によって起る衰弱死」のことで、「安土桃山時代からの淫靡な社会相にかぶれて酒池肉林の快楽に耽り、あたら有望な武人がこの病のために生命を短縮した」ということだ。
花柳病・・「花柳病」とは性病のことで梅毒、淋病に代表される。「花柳界」といえば中国でいう花街柳港からとったもので華やかなイメージの言葉である。だが、その華やかな世界は「梅毒、淋病」といった難病の巣窟でもあったのだ。
煙管・・女性が用いた長煙管は吸口と雁首をつなぐ部分が二、三十センチあった。その管の長い部分を羅宇というが、煙はそこをゆっくり通って吸口に流れてくる。羅宇が長い分、煙の濃さ(ニコチン)は薄められて口当たりがやわらかになったのかもしれない。男性は短くて太いものを使った。
親孝行・・私には四人の不良兄がいたが、よくこんなことをいっていた。
「世間じゃオレらのことを親不幸だっていうけどさ、しょっちゅう心配したり怒ったりしているおかげで、親父はいつまでも元気なんだ。安心させてみろ、いっぺんにモウロクするよ。だからオレたちは親孝行しているのさ」
オドシ教育・・よくもまあ、そんな他愛もない「オドシ教育」を真に受けていたものだと思うが、そんなオドシが積み重なって、いつしか社会に生きる基礎が身についていったのかもしれない。
どら息子・・「あすこの息子はとにかくどらで」と人からいわれるようになるまでには、どらなりの習練、修行――気前のよさ、口説のうまさ、欺しの術、話の面白さ、太っ腹ぷりなどなどの切磋琢磨があったにちがいない。
巡査・・巡査が持っている権力はその背後にある国家権力であって、巡査そのものに権力があったわけではない。だが、巡査自身は「社会公共の安寧秩序を守る身」という意識から、己に権力があると思いこんでむやみに威張った。
弊衣破帽・・薄汚れた白線の入った学生帽、くたびれた紺絣。よれよれの小倉の袴。黒鼻緒のほお歯の下駄、それを履いた素足を踏んばって胸を張り、蛮声はり上げて歌う、
「嗚呼玉杯に 花うけて・・・」
夜這い・・戸の開け方、入り方、畳の歩き方、這い方、夜具の中への入り方、逃げ方。それらをマスターし、根、勘、努力の三つが揃って何の何がしといわれる「範士」の資格を得る(誰がその資格を与えるのかは聞きもらした)。
盥・・盥というものは実に重宝なもので、産湯に使われるだけではない。夏は冷たい井戸水を満たして西瓜を冷やすこともあったし、子供が獲ってきた魚を泳がせたり、水あそび、行水などにも使った。内風呂はなし、銭湯へ行くのは金がかかるというような庶民の暮らしでは、おとなも子供も盥の行水で汗を流したのだ。
良妻賢母・・ある女子高校で国語の時間に「良妻賢母」という字を書かせたところ、「料裁健母」と書いた生徒が多かったという。その話を聞いた我々はみな一様に笑い、
「まあねえ、そういう時代なのねえ、今は」
と改めて慨嘆したのであった。日本女性の鑑であった「良妻賢母」は実態がなくなるのと一緒に言葉もなくなったことを改めて実感したのであった。
焚火・・そのうち「焚き火ってなに?」と訊く子供が増えてくる。もしかしたらマンションが林立する都会の子供は、「垣根って?」というようになるかもしれない。
恥と恥かしがり・・男が恥意識にがんじがらめになっていた頃、女の方もむやみに「恥かしがり」だった。(中略)
男の恥意識が消失したのと共に女の恥かしがりも消滅した。お尻まる見えのミニスカートも平気、おヘソを出して街中を歩いても得意顔・・。
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