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なんか・・ビミョー

 中間試験が終われば、必ず成績が返ってくる。塾としてはテストの点数をあげるのが義務であるから、どんな点数を各生徒がとったかは大いに気にかかるところだし、その結果をもとにして今後の指導方針も考えていかなければならない。そこで、なるべく全員から結果を聞くようにしている。しかし、当然生徒にも色々なタイプがあって、よくても悪くてもすぐに答えてくれる者もいれば、完全に拒否する者もいる。特に女の子は、はっきり教えてくれない子が多くて苦労する。たとえ教えてくれたとしても、私の「テストどうだった」という問いかけに、ほとんどの子が「ビミョー」と答える。「えっ、ビミョーってどういうこと?」と、この言葉が流行り始めた頃にはよく聞き返したものだが、今ではもう慣れっこになって、それは「普通のでき」ぐらいの意味だと解釈するようにしている。
 それにしても、この「ビミョー」という言葉は何度聞いても耳障りな言い回しだと思う。何か食べている時に「それおいしい?」ときけば「ビミョー」、マンガの本を読んでいる子に「それ面白い?」とたずねても「ビミョー」。いったいぜんたい何なんだ、おいしのかまずいのか、面白いのか面白くないのか、もっとはっきりしろ!と思わず怒鳴りたくなる。
 教育の専門家たちが、今の子供は自分の意思を明らかにしたがらないと指摘するのをよく見かけるが、その傾向は確かにあると思う。私などが中学生の頃は、とにかく他人と同じなのが嫌で、少しでも違う格好をしたかったし、違うことを言ってみたかったものだ。しかし、今の子供たちは人真似をしているつもりはないだろうが、他人と同じような服装をしたがり、同じようなしゃべり方をしたがる。そうすることで仲間意識を高めようとしているのかもしれないが、1つのグループ内には暗黙の了解でもあるが如くに、ステレオタイプ化した者達が集まっている。それは女の子の間で顕著な現象であるが、昨今では男の子でも同様だ。同じような色に髪を染め、同じような髪形をし、同じような服を同じように着こなす。そんな奴らを見ると、お前らには自分の意思というものがないのか!と思わず突っ込みを入れたくなる。前後左右どちらを見ても、自分のコピーばかりではかなり居心地が悪いと思うのだけど、彼らにとってはそのほうが楽なのだろうか。変なものだ。
 もう1つ、子供たちと話していて気になる言葉がある。それは「なんか」という言葉である。先日も、塾に遅刻してきた女子小学生に、遅れた理由をたずねたところ、「なんか一人の男の子が、なんか勝手なことばかりして、なんかみんなに迷惑ばっかりかけているもんだから、なんか・・・」と言って、少し考えてから「なんかみんなで話し合って、それでなんかその男の子が運動場を走らされたから・・・」と「なんか」を連発して、結局は何がなんだか要領を得ない話になってしまった。これは極端な例であろうし、その子にしてみれば無意識に使っている、いわば息継ぎのようなものかもしれないが、聞いていると本当に邪魔くさい。私に遅刻を怒られると勘違いして、焦って弁明しようとしたのかもしれないが、しどろもどろになればなるほど頻発される「なんか」という言葉は、その子の気持ちの揺れ具合を端的に表わしているようだった。言葉を探している間に、無言でいることに耐えられず、思わず出てくる言葉なのだろう。そうこう言う私でさえも、案外なときに使っていることもあって、気づくとはっとしたことが何度もある。これは結構みんなが使ってるなと思って、テレビのワイドショーを注意して見ていたら、出演者のだれもが多かれ少なかれ使っているのを発見した。これほど大人が使っているのなら、子供に伝染しても無理ないなと実感した。
 言葉は生き物だから、時代によって変わっていくのは仕方ない。しかし、逆に言えば、言葉が時代を映し出す鏡だと言うこともできるだろう。すると、今の時代は曖昧で、旗幟を鮮明にするのを避けようとする空気で覆われていることになるのだろうか。
 なんかビミョーだ!
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