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秋味

 10月ももう終わりだ。次第に秋も深まってきたが、木の葉の色づき加減はまだまばらだ。自宅から1kmも車を走らせればすぐに山道になってしまうので、どんなに鈍感な私でも木々の装いの変化は見てとれる。今一番気づくのは、そこかしこに立っている柿の木に何とまあ多くの実がなっていることか。写真は私が何本も見かけた中で一番たわわに実っている木を写真に収めたものだが、如何せん携帯のカメラなのでピントが合わず残念な物になってしまった。実物は大きく広がった枝の隅々まで見事なほどびっしりと実がなって、数十メートル手前からでも柿色が浮かび上がってきて壮観を呈している。自然生えなのか、人の手が入ったものなのか判然としない場所に立っているのだが、何故こんなに実がなるがままにされているのだろうか。実の一つ一つは小粒だから、渋柿なのかもしれない。私の家の庭にも大きな渋柿の木が植わっているが、今年はあまり実がならなかった。毎年今頃は実がポトリポトリと落ちて、気付かずに踏んでグチャグチャになったりするものだが、何故だか今年は実が少なかった。実がまだ青いうちに私の父が枝を切ってしまったせいもあるだろう。歩く心配はない代わりに、この季節に恒例のものがない一抹の寂しさを感じないでもない。
 柿とは対照的に、山の栗の実はもうとうに落ちてしまったようだ。2週間ほど前に父が山に入って背負い籠いっぱいに栗を拾ってきた。毎年採りに行く場所が決まっていて大量に拾ってきては自分で殻をむいて実をとり出し、皮を剥いて妻に手渡す。妻はそれをご飯に炊き込んで栗ご飯にする。あまりの量の多さに一週間近くずっと栗ご飯が続くが、これは我が家の秋の風物詩として定番になっている。
 父といえば、田舎育ちのため野山に入って色々な物を採るのが生き甲斐のような人物だ。春には筍を掘ってくる。淡竹(はちく)と言って紫色をした筍だが、ウンザリするほど採ってきては親戚近所に配る。最後には配る所もなくなるほど採ってくる。夏は自分の畑の世話で忙しくて、山野にまじることはないようだが、キュウリやトマトなど畑の収穫物を連日持ち帰ってくるので、これも我が家だけではとても食べきれず、各方面に配ることになる。
 秋は父の本領が最も表れる季節である。畑仕事が一段落した頃を見計らっては、山に入り込む。目的は自然薯(じねんじょ--山芋)掘りだ。私は今までに1・2回しかついて行ったことがないので、人から話を聞くばかりだが、自然薯掘りに関しては超人的な神業の持ち主だそうだ。もともとが大工で力仕事はお手の物だが、1m位も地中に伸びた自然薯を途中で折らずに掘り出すには相当の技術と根気がいるようだが、父の掘ってくる芋は見事なまでに地中にあったそのままの形を保っている。私はそれを見ては「これは立派だ」などと驚くばかりだが、それを掘り出すのにどれだけの労力が要ったのかは知らないでいる情けない息子だ。
 しかし、掘ってきた芋をすってとろろ汁にして、ご飯にかけて食べるときのその食べっぷりだけは、立派な息子だと自負している。芋を土や砂・うす皮が取れるまできれいに洗い、それをすり鉢にこすって粗くおろす。それからすりこぎで丹念に丹念にこねていくのだが、決して簡単なものではない。同じ方向にグリグリ回し続けるには力もいるし、忍耐力もいる。私の最も不得意とする作業だが、近年は父だけに任せておくのも申し訳なく、私も進んですりこぎを握る。だが、まだまだ未熟だ。ビールでも飲まなけりゃ、とても我慢強く続けられない。
 粗い粒がなくなるまで1時間ほどじっくりこねた後で、日本酒・卵を入れ味を調える。なじませたら、かつおだしの醤油の汁を少量ずつおたまにとって流し込みながら、すり続けて仕上げていく。少し濃い目加減にのばしたところで完成!しばらくそっとしておくと、表面が細かな泡でおおわれていかにもうまそうになる。茶碗に少なめに盛ったアツアツのご飯に、とろろをたっぷりかけると、さあーっと小さな音を立てて広まる。それを一気に口に流し込む。う~~ん、うまい!何杯でも食べられる。 最高のご馳走だ!
 
 近年は父をはじめ、すき者が乱獲したせいか、自然薯が本当に少なくなったと父は嘆く。事実、今年はまだ一度も掘ってきていない。私としては一日も早く食べたいのだが、もう72にもなった父に無理をさせるわけにはいかず、じっと我慢している。だけど、早く食べたいなあ。


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