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眼差し

      また立ちかへる水無月の
      歎きを誰にかたるべき。
      沙羅のみづ枝に花さけば、
      かなしき人の目ぞ見ゆる。
               芥川龍之介 「相聞 三」
 
 私の妻は眼差しがきつい。写真を撮ると、必ずこちらを睨み返したように写っている。二重で大きな目をしているのだが、目尻が少しつり上がっているのか、見るものを射すくめるような眼差しをしている。こんな目つきを男がしていたら、喧嘩を売っているようなもので、街を歩けば必ず絡まれるに決まっている。いくら女だと言っても、その目つきで人を見ていては危ないだろうと、「おい、そんなに見るな」とよく注意する。目は心の鏡だというが、性格もきつい。しかも最近は年をとってきたせいなのか、頑迷さが増してきて、言い出したらなかなか聞かない。扱いにくいことこの上ないが、まともに正面から対峙などせず、搦め手から攻めていけば、もとは素直で単純な人間だから、うまくやっていくことはできる。要はこちらの心持ち一つなのだが、私も同じように年をとった分だけ、血気にはやることも少なくなって、彼女のペースにうまく合わせられるようになった。キーワードはSMAPなのだが、それに関連したことさえフリーにしておけば、あとはなすがままに任せておけば、たいていうまくいく。
 長い間、妻のきつい眼差しに向かい合ってきて、耐える術を覚えてきたはずの私が、ある時期、他人の視線が妙に嫌でたまらなくなり、対面して話をするときなどついつい目を逸らしてしまう癖が、いつの間にか身に着いてしまったことがあった。「相手の目を見て話す」ことは、礼儀の第一歩であり、目を逸らすことなど失礼に当たることは、頭では重々理解していても、何故だか相手の視線に耐えられない。塾生の父兄と面談するのも気が進まないことが多かったが、そんなことを言っていては塾の運営に支障を来たしてしまうので自らを奮い立たせて、学習相談も定期的に行ってきた。しかし、目を合わせて話すことがなかなかできず、内心忸怩たる思いが続いていた。社会から、身を退いたような生活を続けてきた付けが回ってきたのだと己を笑うしかなかった。格好付けても仕方がない話だが。
 それがいつの間にか、ふと気がつくと解消されていた。視線を合わせても苦痛を感じなくなったし、じっと相手の目を見て話すことにも耐えられるようになっていた。年をとって、図々しくなったことが一番だろうが、以前より積極的に生きるようになったお陰かも知れない。面倒くさいことに首を突っ込むことが嫌で嫌で、逃げられるなら逃げてやろうとばかりしていたのが、正面から受け止めてガップり四つに組みとめる面白さがやっと分かってきたのかもしれない。それはそれで、なれないことをするものだから、周りに迷惑をかけているだろうが。
 「目は口ほどにものを言う」「目で訴えかける」など、コミュニケーションの一つの手段として目は重要な役割を担っている。他人との触れ合いが苦手になっている現代人にとって、目と目で触れ合う大切さを忘れてはいけないし、言葉の不備を補うものとして有効に使っていかなければならないだろう。
 だけど、「目ぢから」って本当にあると思う。恥ずかしながら、何度妻の目ぢからに震え上がったことだろう。
ふーッ。
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