○本田由紀『多元化する「能力」と日本社会:ハイパー・メリトクラシー化のなかで』(日本の「現代」13) NTT出版 2005.11
本書が、昨年最後に読んだシメの1冊。「メリトクラシー」というのは、社会学では昔から使われている用語らしいが、私がこの言葉を意識したのは、教育学者・竹内洋さんの著作にハマって以来である。
「メリトクラシー」は業績主義/能力主義と訳される。しかし、人間の潜在能力を正確に測定することは不可能であるため、「近代型能力」の指標として用いられたのは「学歴」である。日本では、1970年代の高等教育インフレ以降、学歴は能力の証明機能を失った。しかし、それでも雇用者は(一般大衆も)学歴への依存を捨て切れなかった。ここまでが竹内さんの著作で学んだところである。
本書には、その後に起きたことが記されている。学歴あるいは知的優秀さ、メリクトラシー下の「近代型能力」は、選抜の指標として、いまだ一定の有効性を保っている。しかし、「いい学校を出ていい会社に入る」ことは、もはや確実な成功のセオリーではなくなった。「ポスト近代社会」の選抜原理を、著者は「ハイパー・メリトクラシー」と呼ぶ。それは「生きる力」「創造的人材」「多様な個性」などの美しい言葉で語られるが、その実、個人の全人格が洗いざらい評価の対象となる、きわめて苛烈な、むき出しの機能的要請なのである。
よくぞ言ってくれた。少し肩の荷が下りるような気がした。今後は、自分についても他者についても「ハイパー・メリトクラシー」の盲信に乗らないぞ、と思った。この潮流は、1990年代以降、経済界の提言に端を発し、文部科学省の教育施策とマスメディアの追随が拍車をかけたものである。2002年の遠山文部大臣の「人間力戦略ビジョン」は、読めば読むほど恥ずかしい内容だ。社会サービスについては「小さい政府」を目指した小泉政権なのに、教育に関しては、どうしてこんな個人の内面まで俎上に上げるかなあ。余計なお世話だとはっきり言おう。
しかし、子を持つ親の立場は「余計なお世話」で済まされないのだろう。ポスト近代型能力(コミュニケーションスキル、マネージメント能力)は、学校ではなく、家庭環境に左右される点が大きい(ように見える)。そのことが、女性たちに「パーフェクト・マザー」圧力(子どもを持つからには、完璧に育てなければならない)としてのしかかり、子どもを持つことをためらわせているのではないか、というのは、きわめて説得力のある推論だと思う。
一方、日々ハイパー・メリトクラシーの圧力にさらされる主体に対処の方法はあるのか。著者は「だめ連」や「スローワーク」に共感を示しながらも、もうひとつの選択肢として「専門性」への期待を上げる。個々人が社会の中で、特に仕事に関して立脚できる一定の知的範囲を持つことは、容赦なく捉えどころのない「ポスト近代型能力」の圧力に対抗する有効な「鎧」となるのではないか。この結論部分、もう少し説明がほしかった、と感じられるのは残念。でも強く共感した。「コンピテンシー」とか「ヒューマンスキル」とか、相変わらずの寝ごとを言ってる経営者・管理職に一読させたい。
本書が、昨年最後に読んだシメの1冊。「メリトクラシー」というのは、社会学では昔から使われている用語らしいが、私がこの言葉を意識したのは、教育学者・竹内洋さんの著作にハマって以来である。
「メリトクラシー」は業績主義/能力主義と訳される。しかし、人間の潜在能力を正確に測定することは不可能であるため、「近代型能力」の指標として用いられたのは「学歴」である。日本では、1970年代の高等教育インフレ以降、学歴は能力の証明機能を失った。しかし、それでも雇用者は(一般大衆も)学歴への依存を捨て切れなかった。ここまでが竹内さんの著作で学んだところである。
本書には、その後に起きたことが記されている。学歴あるいは知的優秀さ、メリクトラシー下の「近代型能力」は、選抜の指標として、いまだ一定の有効性を保っている。しかし、「いい学校を出ていい会社に入る」ことは、もはや確実な成功のセオリーではなくなった。「ポスト近代社会」の選抜原理を、著者は「ハイパー・メリトクラシー」と呼ぶ。それは「生きる力」「創造的人材」「多様な個性」などの美しい言葉で語られるが、その実、個人の全人格が洗いざらい評価の対象となる、きわめて苛烈な、むき出しの機能的要請なのである。
よくぞ言ってくれた。少し肩の荷が下りるような気がした。今後は、自分についても他者についても「ハイパー・メリトクラシー」の盲信に乗らないぞ、と思った。この潮流は、1990年代以降、経済界の提言に端を発し、文部科学省の教育施策とマスメディアの追随が拍車をかけたものである。2002年の遠山文部大臣の「人間力戦略ビジョン」は、読めば読むほど恥ずかしい内容だ。社会サービスについては「小さい政府」を目指した小泉政権なのに、教育に関しては、どうしてこんな個人の内面まで俎上に上げるかなあ。余計なお世話だとはっきり言おう。
しかし、子を持つ親の立場は「余計なお世話」で済まされないのだろう。ポスト近代型能力(コミュニケーションスキル、マネージメント能力)は、学校ではなく、家庭環境に左右される点が大きい(ように見える)。そのことが、女性たちに「パーフェクト・マザー」圧力(子どもを持つからには、完璧に育てなければならない)としてのしかかり、子どもを持つことをためらわせているのではないか、というのは、きわめて説得力のある推論だと思う。
一方、日々ハイパー・メリトクラシーの圧力にさらされる主体に対処の方法はあるのか。著者は「だめ連」や「スローワーク」に共感を示しながらも、もうひとつの選択肢として「専門性」への期待を上げる。個々人が社会の中で、特に仕事に関して立脚できる一定の知的範囲を持つことは、容赦なく捉えどころのない「ポスト近代型能力」の圧力に対抗する有効な「鎧」となるのではないか。この結論部分、もう少し説明がほしかった、と感じられるのは残念。でも強く共感した。「コンピテンシー」とか「ヒューマンスキル」とか、相変わらずの寝ごとを言ってる経営者・管理職に一読させたい。