見もの・読みもの日記

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大人の対応を考えよう/封印される不平等(橘木俊詔、他)

2008-01-10 23:16:34 | 読んだもの(書籍)
○橘木俊詔編著;苅谷剛彦、斎藤貴男、佐藤俊樹著『封印される不平等』 東洋経済新報社 2004.7

 「格差」「不平等」は、今や流行語の感がある。書店に行けば、よく似た標題の本がずらり並ぶ。私も何冊か読んでみたが、感心するものもあれば、ガッカリするものもある。えっと、橘木俊詔はどっちだったろうか? ブログ内を検索してみたが出てこない。ということは、著作を読むのは初めてなのだ。名前だけは、すっかり記憶にインプットされていたのに。実は、教育社会学の苅谷剛彦も、社会学の佐藤俊樹も、「気になる書き手」として認識していたが、実際に読むのは初めてである(苅谷さんは編著を1冊だけ読んでいる)。

 本書の前半は、上記3人の学者に、ジャーナリストの斎藤貴男を交えた座談会形式で進む。いみじくも「はしがき」で編者の橘木さんが述べているとおり、「専門の異なる人たちの座談の妙味」がよく出ている。知らないことを教えられて「えっ、そうなの!」と驚く場面も隠さず収録されているのが面白い。

 たとえば、橘木俊詔は、旧ソ連やアメリカ、イギリスのような大国ではなく、もっと北欧モデルに注目してはどうか、と提案する。これに対して、佐藤俊樹・斎藤貴男は、北欧諸国が断種政策を進めてきたことを問題視する。障害者、犯罪者など特定の人々を遺伝的に劣った素質を持つ者とみなし、できるだけ子どもをつくらせない政策を取ることで、強制的な均質化を進め、その上に比較的平等な社会をつくってきた可能性がある、というのだ(→詳しくは市野川容孝『世界』1999年5月号)。これに対して、「ショッキングだ」と素の驚きを隠さない橘木さんって、逆に信頼できる学者だなあ、と思ってしまった。

 もうひとつ、座談会の読みどころは、苅谷剛彦が語る「教育における不平等」である。長い間、教育の世界では「不平等はタブー」で、子どもは誰でも等しく「学びたい存在」であるという理想論が前提だった。しかし、実際には、子どもの「自ら学ぶ力」は、家庭環境(階層差)に深く左右されているという。そう、誰もが「学びたい」と望んでいるなんて、とんでもない幻想だと私も思う。教育関係者がそのことを冷静に認識すれば、日本の教育も少し正常化するのではないか。

 経済学では「公平性と効率性はトレードオフ(二律背反)の関係にある」と考えるそうだ。つまり、市場主義による競争原理をとことん追求すれば経済効率は高まるが、勝者と敗者の格差は広がる。一方、格差を抑えるための介入を行えば、能力ある人間の意欲が削がれて、効率が落ちる。なるほど。納得できるような、できないような。ここでいう「公平性」とは、結果の格差をできるだけ小さい幅に留めた状態をいうようだ。格差論議で使われる「公平」「平等」「公正」などの用語には、意味するところに十分な注意が必要だと思う。

 さて、頑張った人が、公正な競争の結果、最大限に報われる社会は「平等」か。その前提となる「頑張る力」は、我々に平等に与えられているものなのか。難しい問題である。格差解消への拙速な期待に走らず、「どこまでの不平等なら容認できるか」と考えて、落としどころを探っていくことが、大人の(=成熟した社会の)対応なのではないかと思った。
コメント
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