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沖縄(琉球)が独立する日-国際的に正当性を訴える龍谷大・松島泰勝教授にきく(上)

2013-01-23 | ウチナー・沖縄
JBpress 2013.01.22(火)
 日本国内にある米軍基地の74%が集中する沖縄。生活環境の悪化、“特権”を持つ米軍関係者の犯罪など、基地が存在することによる弊害を長年にわたって甘受してきた沖縄で、いま“独立論”が広がりつつある。
 学際的な研究と同時に国際的に独立をアピールしていく動きが出ている。この担い手として自治・独立への学問的研究と運動を進める、龍谷大学経済学部教授、松島泰勝氏に、沖縄(琉球)独立の理念と実現性について聞いた。
 穏やかな語り口ながら、日本と沖縄の間には差別と植民地化の構造があると批判する松島氏は、世界の独立例を踏まえて、その実現性とメリットを語る。かつての琉球国の存在やまとまりを意識して「沖縄」とは言わず「琉球」という名称を使う。
「琉球独立総合研究学会」立ち上げに向けて
――これまで沖縄の中で「沖縄は独立すべきだ」という論はありましたが“居酒屋談議”の域を出ないとも言われてきました。それが最近現実的な議論になってきました。
松島 私は『琉球独立への道-植民地主義に抗う琉球ナショナリズム』(法律文化社2012年2月刊)という本を出しました。
 ここではこれまで思想的、文学的に論じられてきた独立論を、脱植民地化の国際的な動きを研究することで、国連や国際法と関連して、具体的なプロセスを含めて論じました。こうした動きがいま出てきています。
 1996年には、ジュネーブの国連欧州本部に行って、国連人権委員会の中の先住民族作業部会で先住民族として琉球での植民地主義の問題について発言し、世界の先住民族と交流しました。琉球と世界との関係も強くなり、独立論が地に足が着いた具体論として語られるようになりました。
 また、仲間と「琉球独立総合研究学会」というのを4月に立ち上げる予定です。政治学、経済学、国際法、言語学など学際的な視点から独立の可能性、プロセスを研究し発表していく考えです。
――なぜ、国連を通して国際的に訴えようと思ったのですか。
松島 国際法に基づいて世界の先住民族とネットワークをつくろうと思ったきっかけは、大田昌秀・元沖縄県知事が行った代理署名訴訟(米軍用地の強制使用に必要な代理署名を拒否できるかどうかで国と当時の大田知事との間で争われた)で、96年8月に最高裁で大田知事が敗訴したからです。
 これでは国内では基地問題は解決はできない、常に国内問題に矮小化され、今後も裁判所、国会、行政府に握り潰されてしまうと考え、国際問題として認知してもらうことにしたのです。国連の人種差別撤廃委員会は、琉球人は先住民族であり、基地の押しつけは人種差別であることを認めて日本政府にも勧告しました。国際人権規約委員会でも差別の問題として見ています。
 こうして、国際的なネットワークを使って日本、アメリカ政府に責任を問う。これがいままでの独立議論と違うところです。

琉球併合から独立論は続いてきた
――これまでも多くの独立論がありました。過去に遡ってその変遷や違いについて教えていただけますか。
松島 独立論には、実践の面と思想の面があります。実践面で言うと、琉球併合によって琉球王国がなくなった後に、王国の元の家臣が清国に亡命して、琉球王国の復活運動を行うわけです。これは実践的独立論です。それが日清戦争で日本が清国に勝って、運動は衰退していきます。
 戦後、日本の統治が終わったときには、独立を掲げた政党が出てきます。大きな流れとしては日本への復帰運動が起きる中で、復帰が近づくと沖縄人の沖縄を考える会とか琉球議会とか、復帰後に経済的に不況などの不利益を被りそうな人が独立を求めたことが一時期ありました。
 その後いろんな政党ができたり、「うるまネシア」といった自立、独立を問う文化誌が発行され議論されてきました。
 1996年からは国連を通じた脱植民地化の動きが始まります。はっきり独立とは言いませんが、脱植民地化を明確に訴えています。また、個々人の独立論や運動はいろいろあります。高良勉さんという詩人は、エッセイの中で80年に独立論を訴えていました。
 CTS(石油備蓄基地)反対運動のリーダーだった安里清信さんはパラオに行って、琉球は独立すべきだと考えたという話もあります。太平洋の島々を参考にそして連携して独立を論じるという考えも出てきました。同じ島であって人口がずっと少なくて独立しているところがあるからです。
 また、奄美では新元博文さんらが奄美独立革命論を書いています。彼もパラオに行って影響を受けています。

グアムとの共通課題として脱植民地化を 
――独立を研究する新たな学会はどういう経緯で立ち上がることになったのですか。
松島 2012年5月にグアムのチャモロ民族3人を琉球に招き沖縄国際大学で、琉球・グアムの脱植民地化シンポジウムを開きました。グアムはアメリカの属領ですが、植民地と言えます。
 そのため脱植民地化の動きがあり、2014年を目標に、国のあり方について国民投票の準備をしています。そこには3つの選択肢があります。完全独立、パラオなどのような自由連合、それと、アメリカの州になることです。
 独立派を中心に委員会がつくられ、連合を組んで独立のプロセスを検討しているほか、それぞれの派にも構想があります。人口20万弱のグアムがこうした試みをできるのだから140万人の琉球でも独立を前提とした議論ができるだろうということになりました。
松島 最初に、友知政樹さんという沖縄国際大学の准教授が学会を提案し、これに賛同した、主に復帰後に生まれた人が中心となって準備が進みました。この中には、学者もいれば学生もいるし編集者や農家、新聞記者、ビジネスマン、主婦、NPOなどメンバーはいろいろです。学者だけが議論をするのではなく、学問的なスタイルを取って一般の人も参加して議論することになっています。
 琉球人の中には、独立を前提とした意見だけでなく、独立に関心があり、議論をしていく中で考えようという意見や、独立には反対だが現状はおかしいという認識に立ち議論に参加したいなど、いろいろな意見があります。これらすべてに門戸を開いて、議論し切磋琢磨して、「独立阻止」を主張する人とも平和的に議論していきたい。
神聖な場所での米軍の実弾演習
――グアムについて言えば、沖縄の海兵隊をグアムに移転させることにもなっていますが、グアムもまた基地反対、独立の動きがあるのですね。
松島 私も2年間グアムの日本総領事館で働いていたので分かりますが、琉球以上に植民地だなと感じました。島の3分の1が米軍基地。グアムでは軍用地主に地代も払われていない。また、アメリカ大統領を選べないし、グアムからの議員は発言権はあっても投票権はない。連邦政府、連邦議会がグアムに対する決定権を持っています。
 また、現地の観光業は日本資本が牛耳っている。グアムはもともとチャモロ人のものですが、マゼランが来て16世紀以降はスペインに支配され、1898年以降はアメリカ、戦時中は日本、そしてまた戦後はアメリカに統治されます。1950年になってようやく市民権が与えられました。にもかかわらず米議会や政府がグアムの事情を決めてしまいます。アメリカ本土のようには扱わないということを身をもって感じました。
 グアムで勤務したのち私はパラオで1年間働きました。パラオは独立して大きな権限を持っています。見た目はグアムの方が発展しているように見られますがグアムは内実は植民地です。であれば琉球からの海兵隊のグアム移転はおかしい。
 最近では特にパガットという村で建設されようとした米軍の実弾演習場が問題になりました。チャモロの遺跡もある古代の村であり精神的にも神聖なところで、実弾を海に向けて発射するという計画です。
 住民は激しく反対し裁判に訴え、この案は棚上げになりましたが、軍に対する強い反発が生まれています。また、空軍と陸海軍がある上に海兵隊がやってくることで、レイプなどの琉球で起きたような事件が女性の間で心配されています。

「これが復帰40年後の現実か!」
――ここ数年の沖縄の米軍基地をめぐる政府や日本の対応への不信と不満が、いままでのように、政府の言いなりにならないという気持ちを高めたのでしょうか。
松島 2012年11月に宮古島で開かれた九州市長会で、ある市長が沖縄県へのオスプレイ配備撤去の決議を出すことに反対しました。自分のところに来るかもしれないことに反対してのことです。こうしたことで、琉球人はますます自分たちが差別されていることを感じています。
 オスプレイの配備については、県議会、市町村議会の反対決議があっても押しつけられた。また、レイプ事件などが発生しても日米地位協定を変えようとはしない。これが復帰40年の現実なんですね。われわれが求めていた復帰とはこんなものだったのかと、かつて復帰を推進してきた人もいま言っています。
 本土復帰に尽力し、復帰後に最初の知事を務めた屋良朝苗さんという有名な政治家がいますが、彼の秘書的存在だった石川元平さんも最近地元紙の論壇で、独立をすべきだと言っています。元教員で復帰論者だったんですが、いまは独立を主張しています。
 当時は、日本国憲法は平和を掲げているし、基地もなくなり事件事故も少なくなるだろうと思っていたんですが、実際はそうならなかった。

価値観を共有していない、琉球人と日本人
――地位協定といえば、驚いたのが一昨年に見直しされることになった1956年の合意です。その内容は、アメリカの軍人・軍属が公の行事で飲酒した後に自動車を運転した場合も公務扱いになるというものでした。
 こうした非常識なことが長年行われていたことは沖縄以外の日本に伝わっていないですね。
松島 日本国民の大部分にとって、基地、日米地位協定は自分の問題として考えられていません。琉球に住んでいると分かるのが、琉球人と日本人との感覚が大きく違うことです。
 ともに同じネイション(民族)なのかと思うほどです。価値観を共有するのがネイションだと思いますが、これを共有していません。
 イタリアにある米軍基地と琉球とはずいぶん違います。イタリアでは米軍機が墜落したときイタリア政府が調査、回収を行います。また、戦闘機などの飛行の角度、回数が制限されていて、住宅地を回避しているし、イタリアでリポーゾというお昼寝時間は飛行機はエンジンを切ることになっています。でも、琉球の基地にはこうした配慮はありません。
 戦争で負けたことに対する負い目が日本側にあるとともに、米軍基地があるからこそ日本は守られている、基地を置くために米軍やその家族に対しては優遇的な措置を取るという考えが政治家、官僚、一般国民にもあるのでしょう。反対に琉球からの要求は無視されています。
――原発立地・建設における中央と地方との構図も似ていますが、基地の場合は日本政府のほかにアメリカからの支配という、複雑な構図がありますね。
松島 これは本当に琉球にとってやりにくい。日本政府に対して基地の問題を質すとアメリカが関係するからどうしようもないと言い、アメリカに聞くと国内の問題だと言われることがある。両方とも責任逃れ、あたかも自分には責任がないように、軍人の考えをそのまま伝えるようなことをする。抑圧された琉球人にとっては抵抗の相手が2つあって簡単にはいかないという気がします。
――恩恵を受けるため、中央の要求を受け入れざるを得ないような状況もありましたか。
松島 中央、都市部ではいらないものを周辺に押しつけ、その見返りに交付金などを与える。しかし、補助金、交付金以上に基地があることの経済的な損失は大きいし、また犯罪などお金で換算できない犠牲、コストといったマイナス面もたくさんあります。
 中央では、地政学上重要だから基地のあることは諦めてくれと言います。これついては反証できる調査も行われています。例えば琉球の米軍が中東に出るときは佐世保に寄ってから出ていきます。琉球はサンゴ礁に囲まれていていい港がないからです。だから海兵隊はハワイとグアムとダーウィンに移設できるわけです。また、米軍はローテーションで動いているから、常に日本を守っているわけではありません。

返還後の土地は基地より大きな経済価値を生む
――基地がなくなったら経済的に困るでしょうという意見があります。しかしこれまでの基地返還後の土地の利用価値、経済効果を見ると、基地より大きいのが明らかだというデータが出ていますね。
松島 そうです。年間の県民総所得のたった5%しか基地経済は生み出していません。跡地利用を見ると、おもろまち(那覇市)や北谷町美浜をはじめほとんどすべての基地跡地は何十倍、場合によっては100倍以上も経済効果を生んでいます。
 基地の跡地は、商業・文化施設になったりしています。例えば読谷村では紅芋畑で栽培した芋を材料にして紅芋タルトというお菓子を作ったり、やちむん(焼き物)の里ができ、琉球陶器やガラス細工など工芸品も作って文化の里になっています。いま米軍基地の中のスーパーで働いたり、警備員、通訳などの技能を持った人が働ける機会は基地の外にもあります。
 ですから基地反対、基地返還はかつては革新勢力の人が主張していたのが、いまでは保守派や産業界からや、稲嶺前知事、仲井真知事など政界も保革問わずオール琉球としても、なるべく早く返してくれと言う声が上がっています。「基地があるから潤っている」という話はもう通用しません。
――雇用については、基地の有無はどう関係するでしょうか。那覇の専門学校では軍関係への就職をPRしているところも見られます。現状は基地内での雇用を積極的にとらえているようですが。
松島 いま、9000人ぐらいが軍関係で雇用されています。これは琉球の全就業者数60万人の一部であり、全基地が撤去されてもこの雇用は吸収できます。
 専門学校も以前よりも宣伝はしなくなりました。準公務員としての扱いはありましたが、労働条件を見ても裁判になったり、ハラスメントも生まれています。以前に比べて軍で働くことが魅力的ではなくなっています。
 若い人の中にはレイプ事件などによって、軍事基地があることは自分たちの生命や家族、恋人などの生命が危険にさらされているという意識が生まれています。沖縄市などでは青年団がいま自警団を組んで町を回るという動きも出てきています。基地は生活を不安にするという思いが若者の中から生まれています。
日本から離れる覚悟のある人が増えている  
――こうなると、琉球に対する処遇を手厚くする、つまり“もっとアメをあげないとまずい”という見方が出てきますが、これに対してはどう思われますか。
松島 さまざまな補助金や優遇措置といった“アメ玉”が、これまでと同じであれば失敗が繰り返されるだけです。1995年に少女がレイプされて、そのあとずっとものすごいお金が特に米軍基地のある市町村に投じられました。名護市にも600億円くらい投じられましたが、効果は薄かった。
 政府はこれまで国土の0.6%で140万人しかいない小さなところに対して、なんでもやりたい放題してきた。しかし、独立論が具体的になって現実味を帯びてくると、琉球の価値、意味を日本全体が考えるでしょう。日本から離れる覚悟がある人が増えているという実態を見ると、対等な相手として見るようになるかもしれませんし、琉球人としては日本政府に対して政治的な地位を変えるための交渉ができる可能性があります。
松島 1999年にスコットランドはイギリスから分権化して独自な政府と議会をつくったんですが、沖縄県議会、県庁なども、外交の一部を担うような分権化の議論を日本政府と交渉できると思います。
 日本政府、そして日本人は、米軍基地を取るのか琉球を取るのかということを選択しないといけないのではないでしょうか。
 米軍は日本のほかのところで引き受けるから、琉球は日本のままに、というのなら分かりますが、このままだと「沖縄差別」が永続化すると、保革問わず琉球では言っています。

根底に異質なものとして沖縄は見られている?    
――基地の存在や地位協定の実態は、「差別」を反映しているということですが、この根底には沖縄という地方に対する意識の上での差別があると感じますか。
松島 1879年に琉球処分で沖縄県が誕生したときに、日本への同化政策で差別が行われてきて、戦争中には琉球の言葉を使っただけでスパイ容疑で処刑されたこともありました。
 講和条約後は日本から切り離されて米軍の統治下になり、それからずっと基地を押しつけられてきました。これらは差別です。
――意識の上での差別はどうでしょう。石垣島出身のアコースティックバンド、BEGIN(ビギン)の3人にインタビューをしたとき聞いた話ですが、1980年代終わりに彼らが東京に出てきていて、あるときアルバイトをしようとして多数の人に交じって現場に集合したとき、「君たちはこっち」と言われ外国人たちの集団に入るように言われたそうです。
松島 私は石垣で生まれて、高校、浪人までは那覇で勉強して、日本人として何の疑いもなく来ました。しかし東京へ来てみると、色は黒いし言葉がちょっと変だとかで、周りのヤマトンチュ(日本人)から「どこの国から来たのか」と言われ、同じ日本人とは思われませんでした。
 当時、沖縄県人材育成財団の寮に住んでいたのですが、そこに住む同じ大学生の中にはそうしたことがショックで、寮から出られなかった人がいました。1980年代半ばのことです。琉球の人を異質な者と見ている普通の日本人は多いなと感じました。
 あるいは、もしかしたらあえて異質な者と名指しすることで、相手を支配下に置こうとしているのではないかと思えました。これはショックでしたが、いい機会でもあり改めて琉球の文化や歴史を学んで、足元を深く掘り下げて議論していく気になりました。琉球にずっと住んでいたらこういうことはなかったかもしれません。外に出ていくことで、自分は何者かを知ることになりました。
――御著書の中に「人類館事件」のことが出ていますね。かつての差別に関する複雑な事例です。
松島 琉球への差別であるのと同時に、あの事件に関して琉球が屈折しているのは、自分たちは帝国の臣民であり、自分たちより下の人を差別するということがあった。差別の螺旋階段を琉球人自身が作ろうとしてしまっていたわけですが、これではいけない。
★注:人類館事件:
1903(明治36)年、大阪で開かれた内国勧業博覧会の「学術人類館」なるところで、アイヌ、琉球女性、朝鮮人、台湾先住民らが、生身で「展示」された。人類学的なものという名目だったが実際は見世物的で沖縄からは抗議の声が上がった。しかし、その内容は沖縄人は日本国民なのにアイヌら他民族と同様に展示されたというもので、のちに沖縄内でもこの主張に批判が出た。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/36968
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