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世界一暑い観光地「デスバレー(死の谷)」の由来は酷暑ではなかった

2023-08-03 | 先住民族関連
人々を魅了するカリフォルニアで起きた過酷な旅路の歴史
ナショナルジオグラフィック2023.08.03

米カリフォルニア州デスバレー国立公園のメスキート・フラット砂丘。遠くにハイカーの姿が見える。起伏に富むこの砂漠で1913年に計測された56.7℃という気温は、史上最高気温とされている。現在でも猛烈な暑さを体験しようと訪れる観光客が絶えない。(PHOTOGRAPH BY RAUL TOUZON, NAT GEO IMAGE COLLECTION)
 北半球を熱波が覆うこの夏、地球で最も暑い場所に観光客が続々と訪れている。米カリフォルニア州のデスバレー(死の谷)だ。人々を駆り立てているのは、世界記録を塗り替える気温を体験できるかもしれないという期待感。デスバレーでは、1913年に56.7℃という驚異的な気温が記録された。これは、今でも世界の史上最高気温だ。(参考記事:「約90年ぶり54.4℃、地球はどこまで暑くなるのか?」)
 だが、デスバレーという名は、この焼けつくような夏の高温から名づけられたわけではない。実は、ある冬に起きた壮絶な惨事から生まれた。デスバレーの名前の由来を振り返り、この過酷な気候と不毛の土地が私たちを魅了し続けるわけを探ってみよう。
荒涼とした砂漠
 デスバレーは、米ネバダ州との州境に近いカリフォルニア州南東部にあり、モハーベ砂漠北部に位置する。周囲を4つの山脈(西のパナミント山脈、東のアマルゴサ山脈、北のグレープバイン山脈、南のアウルズヘッド山脈)に囲まれている。(参考記事:「国際自然保護写真賞:デスバレー」)
 この地域の先住民だったティンビシャ・ショショーニ族は、千年間にわたってデスバレーに根を下ろして生活してきた。だが、西部に向かう途中でこの谷に遭遇したヨーロッパ人移住者たちは、その景観に度肝を抜かれた。
 デスバレーは山脈に囲まれているが、米国で最も海抜が低い場所にある。砂漠のアルカリ性の土壌はカラカラに乾き、草木もほとんど育たない。散在する砂漠が反射する熱を周囲の山々が閉じ込めるので、夏は異常な高温となり、冬も人を寄せつけない。
 カリフォルニアは金鉱が発見されて1849年に人々が殺到する以前から、天然資源に恵まれた新天地を求める白人移住者を引きつけてきた。移住者の多くは、山や砂漠を超える過酷な旅にまったく慣れていなかった。また、一番安全で早いルートを知っているというウソにだまされて犠牲となった人もいた。
 特によく知られているのは1846年に起きた「ドナー隊事件」だ。ランスフォード・ヘイスティングズが近道として吹聴していたルートを、開拓者グループ「ドナー隊」が鵜吞みにして進み、シェラネバダ山脈の積雪で遭難した。立ち往生した結果、ついに人肉食に踏み切るまでに追い込まれ、グループの半数近くが飢えと疲労で死亡した。
 ドナー隊事件の悲劇、そして移住者はこの地域に不慣れという事実にもかかわらず、なんとかしてカリフォルニアへの近道を見つけようとする支援者や幌馬車隊のリーダーたちは後を絶たなかった。特にカリフォルニアで金が発見されて以降、その熱は高まった。
デスバレーへの近道
 1849年10月、ジェファーソン・ハント率いるモハーベ・サンホアキン・カンパニーの幌馬車隊のメンバーの間では、ハントが決めた移動速度と彼が選んだ「オールド・スパニッシュ・トレイル」というルートに対するいら立ちが高まっていた。「もっと速く進まなければ、冬になってドナー隊のように山で遭難してしまう」と懸念する声も上がった。
 そこで、メンバーは別のルートを進むよう、ハントに進言した。偵察に出たハントは渇きのために息も絶え絶えで戻ってきて、「予定通りオールド・スパニッシュ・トレイルを進む」と告げた。
 それでも一部のメンバーは納得せず、モハーベ砂漠を越えて西に向かうルートを見つけられるはずだと考えていた。そんなとき、一行はトレイルで別の少人数のグループに出会い、近道を描いた手書きの地図を見せられた。この近道はこの地方の経験豊富な猟師や山岳住民のお墨付きだ、という話だった。
 このルートならば、旅の道のりをおよそ800キロメートル以上短縮し、数カ月早く旅を終えられる可能性がある。だが、ハントはこのルートを拒んだ。そのため、メンバーの大半が隊から離脱して、より効率的と考えられるルートを選んだ。
 最初は、これが正しい判断だったように思われた。旅は困難もなく、予定より早く進んだ。しかし、間もなく地形は険しくなり、どうやって前進するのかという言い争いが頻繁に起きるようになった。
 あるグループは、水を探して近くの山に向かった。「ジェイホーカーズ」と称する若い独身男性たちは別のグループを結成し、山岳住民のお墨付きというルートを見つけるために、まっすぐ西に進むことにした――結局、このルートは実在しなかったのだが。 
 どちらのグループも、旅を続けるうちに水が入手できなくなり、多くのメンバーは、恐ろしいシェラネバダ山脈で冬を迎える事態を避けるため、ハントの本隊を捜して引き返した。「草はほとんど生えていないし、木は1本もない」。ジェイホーカーズのメンバーだったシェルドン・ヤングは、景観についてこう書き残している。「目を疑うような土地だ」(参考記事:「デスバレーの動く石、謎を解明」)
苦難の旅
 1849年12月、衰弱して疲れ切った2つのグループは、ついに塩類平原(塩湖が干上がってできた平原)が広がる大きな谷に入った。四方は山に囲まれている。この谷間の砂漠では水は乏しく、アルカリ性の高い水源しか見つからなかった。
 ジェイホーカーズのグループは連れていた牛の多くを殺して食料とし、徒歩で谷を渡り、先住民を見つけて安全な場所まで案内してもらうことができた。もうひとつのグループは異なる方角に進んだが、また別の男性グループが離脱して別のルートを選んだ。この新たなグループは、結局、過酷な気候にさらされて疲労困憊(こんぱい)し、命を落とすことになる。
 元のグループのメンバーたちは脱水症状に苦しんだが、吹雪のおかげで一時的に水が得られた。しかし、やがて脱水と疲労のために牛たちが次々と息絶え、男性メンバーも複数死亡した。とうとう、数人を残して男性たちがグループを離れ、山を越えるルートを探しに出た。残るメンバーは谷間で辛抱強く助けを待ち続けた。
 ひと月以上過ぎたある日、物資を得るために先に送り出されていた2人の若者が帰還し、ついに残っていた人々が救出された。その大半は女性や幼い子どもだった。命拾いした人々が最後にパナミント山脈を越えるとき、メンバーのひとりが谷を振り返り「さよなら、デスバレー」と言った、と伝えられている。結局、近道を選んだグループは、目的地のカリフォルニアにたどり着くまでに4カ月以上も費やした。
史上最高気温は本当か?
 こうして、この谷は「デスバレー」と呼ばれるようになり、現在でも、米国で最も不毛で危険な場所のひとつとして知られている。1913年には外気温が56.7℃まで上昇したと報告された。これは、いまでも最高気温の世界記録だ(地表面温度はまったく別の区分になる)。
 しかし、この計測値が近隣の場所の値と合致しないことや、デスバレーの異常な「ホットスポット」でもこうした変動は説明できないことを挙げて、現代の気象学者たちはこの記録に異議を唱えている。
「1913年7月10日にデスバレーの気温が56.7℃だったという報告は、気象学的観点から見て本質的にあり得ないことだと論証できる」。2016年の分析で、気象学者のクリストファー・C・バート氏は述べている。しかしながら、気温の世界記録を認定する世界気象機関(WMO)は、現在もこの計測値を世界記録としている。
 WMOは「信頼に値する新たな証拠が提示されれば、過去のいかなる最高記録でも調査する」と2020年に発表したが、この分析は現在でも公式に無効とはされていない。(参考記事:「専門家に聞く、猛暑と温暖化の関係」)
 その一方で、近年は新たな世界記録が出る可能性も高まっており、WMOは「新記録が出たら調査して有効性を確認する」と述べている。デスバレーは夏の焼けるような高温から命名されたわけではない。だが、デスバレー命名から174年後の今も、この塩分が多い不毛の谷が人を寄せつけないのは当時と変わらない。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/23/072800394/
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