朝日新聞 2020年5月24日 8時00分
北海道を代表する彫刻家、砂澤ビッキ(1931~89)のトーテムポールが、4月下旬、倒壊した。音威子府村にある、北大中川研究林の事務所前に立っていた。素材の木が倒れ、朽ちていくのも、また自然。ビッキの思いを継ぎ、しばらくは倒れたままの姿を残すという。
春嵐の夜、高さ6メートルのフクロウは崩れ落ちた
倒壊したのは、81年に制作された「思考の鳥」というトーテムポールのうち、「フクロウ」。アカエゾマツで作られ、高さは約6メートル。4月21日夜、強風のため、土台から約1・7メートルを残して倒れた。広げた翼の裏には、制作に協力した人たちの名前も刻まれていた。
ここから続き
「思考の鳥」は3本から成り、04年には真ん中に立つ高さ約11メートルの「エゾシカ」が倒壊。「キツツキ」は11年に顔の一部が、15年には翼が地面に落ちた。いずれも残った柱部分は、いまも立ち続けている。
旭川で生まれ育ったアイヌ民族のビッキは、独創的な木彫で知られ、78年に制作活動の場を札幌から音威子府へ移した。そこで、北大の研究者たちとも酒を酌み交わして親交を深め、事務所前にトーテムポールを立てることになったという。
材料の木は、いずれも北大の研究林から切り出された。ビッキは自ら山へ入り、使う木を自分の目で選んだ。当時、地元で材木業を営み、ビッキと親交の深かった河上実さん(82)が同行した時、1本のウダイカンバがビッキの目に留まった。「この木は雨風に弱いよ」と伝えたが、「俺、この木に彫りたいんだよね」とこだわった。その木を使ったのが、3本の中心となる「エゾシカ」だった。
「自然は、作品に風雪という名の鑿(のみ)を加えていく」
ビッキは自らの野外作品を自然に任せていた。86年には、4本の巨大な木のオブジェ「四つの風」を札幌市の札幌芸術の森美術館に立てた。その際に「自然は、ここに立った作品に、風雪という名の鑿(のみ)を加えていくはずである」との言葉を寄せていた。4本のオブジェは、その思いの通り、すでに3本が倒れ、最後の1本が残るだけになった。同美術館やビッキの妻・凉子さんによると、「フクロウ」の倒壊により、ほぼ原型のまま残るビッキの屋外作品は、「四つの風」の最後の1本だけになったという。
中川研究林でもしばらくの間、砕け散った破片も含め、倒壊したままの姿を残しておくという。その後については、木を切り出した場所の記録が残っていることから、伐採地に戻すことなども検討している。河上さんは「倒れ、朽ち、土にかえっていくのも、ビッキの作品。ビッキの芸術は永遠に続く」と話している。(本田大次郎)
■砂澤ビッキ 木彫作品に「神の舌」「TOH」「樹華」
彫刻家。1931年、旭川市でアイヌ民族の両親のもとに生まれる。小さなころから、ビッキ(カエル)の愛称で呼ばれる。22歳の時に阿寒湖畔に移住し、土産物屋で木彫りを始める。冬になると神奈川県鎌倉市に滞在するようになり、作家・澁澤龍彦らと交流。モダンアート協会展などに木彫を出品、注目されるようになる。札幌に拠点を移した後、1978年、47歳の時に、音威子府村の廃校になった小学校にアトリエを構えた。ここで、総重量7トンと言われるナラの原木を使った「神の舌」、塔のように垂直に立つ「TOH」、柳の枝が絡まり合って一つの塊をなす「樹華」などを次々発表。86年には「四つの風」を制作した。89年に死去、57歳だった。音威子府村にあるアトリエは現在、「BIKKYアトリエ3モア」としてビッキの作品を展示している。問い合わせは01656・5・3980。
https://digital.asahi.com/articles/ASN5M5H15N5FIIPE008.html?pn=4
北海道を代表する彫刻家、砂澤ビッキ(1931~89)のトーテムポールが、4月下旬、倒壊した。音威子府村にある、北大中川研究林の事務所前に立っていた。素材の木が倒れ、朽ちていくのも、また自然。ビッキの思いを継ぎ、しばらくは倒れたままの姿を残すという。
春嵐の夜、高さ6メートルのフクロウは崩れ落ちた
倒壊したのは、81年に制作された「思考の鳥」というトーテムポールのうち、「フクロウ」。アカエゾマツで作られ、高さは約6メートル。4月21日夜、強風のため、土台から約1・7メートルを残して倒れた。広げた翼の裏には、制作に協力した人たちの名前も刻まれていた。
ここから続き
「思考の鳥」は3本から成り、04年には真ん中に立つ高さ約11メートルの「エゾシカ」が倒壊。「キツツキ」は11年に顔の一部が、15年には翼が地面に落ちた。いずれも残った柱部分は、いまも立ち続けている。
旭川で生まれ育ったアイヌ民族のビッキは、独創的な木彫で知られ、78年に制作活動の場を札幌から音威子府へ移した。そこで、北大の研究者たちとも酒を酌み交わして親交を深め、事務所前にトーテムポールを立てることになったという。
材料の木は、いずれも北大の研究林から切り出された。ビッキは自ら山へ入り、使う木を自分の目で選んだ。当時、地元で材木業を営み、ビッキと親交の深かった河上実さん(82)が同行した時、1本のウダイカンバがビッキの目に留まった。「この木は雨風に弱いよ」と伝えたが、「俺、この木に彫りたいんだよね」とこだわった。その木を使ったのが、3本の中心となる「エゾシカ」だった。
「自然は、作品に風雪という名の鑿(のみ)を加えていく」
ビッキは自らの野外作品を自然に任せていた。86年には、4本の巨大な木のオブジェ「四つの風」を札幌市の札幌芸術の森美術館に立てた。その際に「自然は、ここに立った作品に、風雪という名の鑿(のみ)を加えていくはずである」との言葉を寄せていた。4本のオブジェは、その思いの通り、すでに3本が倒れ、最後の1本が残るだけになった。同美術館やビッキの妻・凉子さんによると、「フクロウ」の倒壊により、ほぼ原型のまま残るビッキの屋外作品は、「四つの風」の最後の1本だけになったという。
中川研究林でもしばらくの間、砕け散った破片も含め、倒壊したままの姿を残しておくという。その後については、木を切り出した場所の記録が残っていることから、伐採地に戻すことなども検討している。河上さんは「倒れ、朽ち、土にかえっていくのも、ビッキの作品。ビッキの芸術は永遠に続く」と話している。(本田大次郎)
■砂澤ビッキ 木彫作品に「神の舌」「TOH」「樹華」
彫刻家。1931年、旭川市でアイヌ民族の両親のもとに生まれる。小さなころから、ビッキ(カエル)の愛称で呼ばれる。22歳の時に阿寒湖畔に移住し、土産物屋で木彫りを始める。冬になると神奈川県鎌倉市に滞在するようになり、作家・澁澤龍彦らと交流。モダンアート協会展などに木彫を出品、注目されるようになる。札幌に拠点を移した後、1978年、47歳の時に、音威子府村の廃校になった小学校にアトリエを構えた。ここで、総重量7トンと言われるナラの原木を使った「神の舌」、塔のように垂直に立つ「TOH」、柳の枝が絡まり合って一つの塊をなす「樹華」などを次々発表。86年には「四つの風」を制作した。89年に死去、57歳だった。音威子府村にあるアトリエは現在、「BIKKYアトリエ3モア」としてビッキの作品を展示している。問い合わせは01656・5・3980。
https://digital.asahi.com/articles/ASN5M5H15N5FIIPE008.html?pn=4