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「グリセルダ」とは何者だったのか、70年代のコカイン帝国の女王

2024-02-11 | 先住民族関連

ナショナルジオグラフィック2024.02.11

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/24/020600075/

元ネタにしたNetflixのドラマが人気、コロンビアの“ゴッドマザー”の真相

グリセルダ・ブランコは、自身の夫3人を含め、全米で40人の殺害に関与した疑いがもたれている。彼女は最盛期には月8000万ドルものコカインを売りさばいた。(PHOTOGRAPH BY GDA/EL TIEMPO/COLOMBIA/AP)

 ゴッドマザー。ブラック・ウィドウ。クイーンピン(組織のかなめとなる女性)。グリセルダ・ブランコに与えられた数々の異名や通称は、コロンビアから米国までを席巻した、10億ドル規模の血塗られた麻薬帝国を率いる中で、彼女が手にした悪名を物語っている。

 最近ではネットフリックスでドラマ「グリセルダ」の題材としてもとり上げられた、暴力的な世界でのし上がっていく彼女の生涯の物語は、真実と虚偽とがないまぜになっている。神話の裏に隠されたほんとうのグリセルダとは、どんな女性だったのだろうか。(参考記事:「映画にも、オセージ族連続怪死事件とは、米先住民60人超が犠牲に」

身代金の受け取りに失敗して少年を殺害

 ブランコは1943年2月15日、コロンビアで生まれた。それからまもなく、彼女の祖国は「ラ・ビオレンシア」によって徹底的な破壊に見舞われた。ラ・ビオレンシアとは、1948年4月9日、人気政治家ホルヘ・エリエセル・ガイタンがボゴタの街で暗殺されたことをきっかけに始まった暴力と社会不安の時代のことであり、10年後に終結するまでに殺害された人の数は20万人にのぼった。

 こうした暴力を背景として、ブランコは大人になった。歴史家のエレイン・キャリー氏が著書『Women Drug Traffickers(女性麻薬密売人)』で指摘している通り、ブランコと同世代の女性たちは、「権力は多くの場合、暴力行為によってもたらされる」ことを身をもって学んでいた。

 コロンビアの都市メデジンの貧困層として成長したブランコは当初、さほどの力はもっていなかった。11歳で犯罪の世界に足を踏み入れたきっかけは、地元の少年を誘拐した後、身代金の受け取りに失敗して彼を殺害したことだったとされる。その後、彼女の経歴には、スリや偽札づくりが加えられていった。

 ブランコは、書類の偽造と人身売買で暮らしていたカルロス・トルヒーヨと出会い、やがて結婚する。この結婚は3人の子どもをもたらしたが、結局は離婚に終わった。そして1970年代半ばには、トルヒーヨはすでにこの世を去っていた。死因は健康問題だったとされる一方で、そこにはブランコがかかわっていたという主張もある。

「白い黄金」を商売に、最盛期の売上は毎月8000万ドル

 1970年代のディスコブームが、コカインなどの違法薬物の市場拡大に火をつけた。70年代半ばには、コロンビアはコカイン取引の中心地として台頭し、とてつもない富と危険をもたらした。

 2番目の夫となった麻薬密輸業者のアルベルト・ブラボーとともに、ブランコは米ニューヨークを拠点とするコカイン帝国を築いた。彼らのビジネスを支えていたのは、麻薬を隠せるよう特別にデザインされた下着を着て国境を越える密輸人たちだった。

 帝国が成長するにつれ、ブランコとブラボーの関係は悪化した。具体的にどんなことが起こったのかについては議論の余地が残っているものの、ブラボーは1975年に殺害された。ブランコは後に、自分が彼の口に銃弾を撃ち込んだと主張している。

ギャラリー:「グリセルダ」とは何者だったのか、70年代のコカイン帝国の女王 写真6点(写真クリックでギャラリーページへ)

 ブラボーの死により、グリセルダ・ブランコには「ブラック・ウィドウ(黒い寡婦)」、すなわち、夫を殺して消し去った女性というイメージが定着した。

 最盛期には、ブランコの麻薬ネットワークは毎月8000万ドル相当のコカインを売りさばいていた。彼女の最大の市場はニューヨーク、マイアミ、ロサンゼルスだった。

 コカイン帝国の繁栄により、ブランコは「ゴッドマザー」と呼ばれるようになった。映画『ゴッドファーザー』に登場するヴィトー・コルレオーネにちなんだニックネームだ。ブランコ自身もこれを気に入っていたようで、1978年に出産した4人目にして最後の子どもに、マイケル・コルレオーネという名前をつけている。

「コカイン戦争」の戦場と化したマイアミ

 暴力こそが、ブランコが帝国を築き、維持するための基盤だった。そしてその暴力によって、マイアミは麻薬戦争の戦場と化した。(参考記事:「フィリピン麻薬戦争、貧民街を狙う姿なき殺人者」

 特に多くの衆目を集めた事件は、1979年7月11日に起こった射殺事件だ。2人の男が、おそらくはブランコの命令によって、マイアミのデイドランド・モールにある酒販店でコカインの売人とそのボディガードを抹殺した。

 マイアミで起こった別の事件は、ブランコの子どもを蹴ったとされるヘスス・カストロの殺害命令に端を発していた。しかし、1982年、彼女が雇った殺し屋は誤ってカストロの2歳の息子ジョニーを殺してしまった。

 殺し屋のひとりであるホルヘ・アヤラによると、ブランコはこの手違いのニュースを聞いて喜んだという。「最初は、父親の殺害に失敗したことでひどく腹を立てていました。しかし、誤って息子を殺してしまったと告げたところ、それはいい、これでおあいこだと言ったんです」

 ブランコの子どもたちは、暴力を直に目撃していた。1983年、ブランコは3番目の夫ダリオ・セプルベダの殺害を命じたと考えられている。セプルベダはコロンビアで、5歳の息子マイケル・コルレオーネの目の前で殺された。

 当局は、ブランコがかかわった殺人は、米国全土で少なくとも計40件にのぼると考えていた。

ブランコの転落

 少なくともしばらくの間、ブランコは先手を打つことで法の手を逃れ続けた。

 米国麻薬取締局は情報提供者と協力してブランコの行方を追い、彼女に対する立件準備を進めた。

 当局は1985年2月17日、米カリフォルニア州アーバインでブランコを逮捕し、その後行われた裁判で、彼女は懲役15年の刑を言い渡された。その9年後には、ジョニー・カストロおよび麻薬の売人アルフレード・ロレンツォ、グリゼル・ロレンツォ夫妻殺害の容疑により、追加の告訴がなされた。

 ブランコは2004年にコロンビアに強制送還され、メデジンの富裕層が暮らすエルポブラド地区で、8年にわたって静かな生活を送った。

 2012年9月3日、69歳のグリセルダ・ブランコが、メデジンの肉屋から通りに出た。突然、2発の銃声が響いた。バイクに乗った暗殺者たちの銃から発せられたもので、彼らはすぐに現場から逃走した。ブランコは倒れた。メデジンの貧しい通りから血まみれの道を切り開いてきた女性はついに、同じ街の通りでその命を終えた。(参考記事:「麻薬王がのこした「コカイン・カバ」 自然環境に貢献?」

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