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第34回:マーロン・ブランドの肉声

2016-01-28 | 先住民族関連
コラム:佐々木俊尚 ドキュメンタリーの時代 - 第34回
エイガドットコム-2016年1月27日更新

マーロン・ブランドの肉声が盛り込まれたドキュメンタリー(C)MB FILMS LTD 2015. All Rights Reserved.
マーロン・ブランドという俳優の名前を聞いて、すぐに顔を思い出す人はもはやだいぶ減ってしまったかもしれない。そもそも出演作はたくさんあるが、駄作が非常に多い。晩年は体重が120kgにもなって激太りし、言うのもなんだがとても醜かった。
性格が悪かったことでも有名だ。若いころは共演の女優を漁りまくり、有名になってからはひたすら尊大になり、びっくりするぐらい高い出演料を吹っかけた。脚本を覚えられないのでも有名だった。だからだんだん映画業界で干されていった。
そういうひどい人だったのだが、しかし彼の名前は燦然と映画史に輝いている。20代のころの「欲望という名の電車」(1951年)「波止場」(1954年)も素晴らしかったが、いったん干されてほとんど消息不明になった後、1970年代になって突如復活してからの3作が圧倒的だ。
1972年の「ゴッドファーザー」と「ラスト・タンゴ・イン・パリ」、それに1979年の「地獄の黙示録」である。
そのころ業界から半分消えていたブランドは、監督のフランシス・フォード・コッポラから「ゴッドファーザー」のオファーを受けた。しかし制作スタジオが反対し、屈辱的なスクリーンテストを受けさせられることになる。
「スクリーンテストなど屈辱的だったが、私には仕事が必要だった。演じる自信はなかった。私は口の中にコットンを詰め込んだ。するとこんな話し方になる。のどを撃たれたような声で……ぼそぼそと話す。役者が最も恐れるのは恐怖心だ。評価を恐れ、努力する姿は隠したいし、自分の虚勢やウソが信じてもらえなかったらと、怯えているところも見られたくない。その恐怖心が演技をだいなしにする。だから奥に隠れてるカメラマンやプロデューサーに、『お前らなど構うか』と言ってやるんだ」(本作より)
マフィアの老ボスを演じるため口にコットンを詰め、背中を丸めてボソボソと喋る演技に、コッポラは圧倒され、その場でブランドの起用を決めたとかいう神話が残っている。
このゴッドファーザーのドン・コルレオーネ役で、ブランドはアカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞した。ところが授賞式に現れたのはブランドではなく、アメリカ先住民族の女性。彼女はブランドの言葉をこう読み上げた。「このような権威ある賞をいただきましたが、残念ながら辞退させていただきます。現在の映画業界の先住民に対する扱いへの抗議のためです。愛と寛大な心でご理解ください」
なにからなにまで伝説的な俳優は、晩年にはまた駄作にたくさん出るようになり、そのうちふたたび不幸のどん底に落ちた。長男が長女のボーイフレンドを射殺して逮捕され、長女もその後自殺した。肥りすぎた挙げ句に心臓病を病み、そして80歳で亡くなった。
しかしマーロン・ブロンドという俳優の存在は映画史のなかで傑出している。彼が出現して以降、俳優の演技は大きく変わったと言われる。それまでの映画俳優は、みんな「スター」だった。クラーク・ゲーブルもジョン・ウェインもみんなそうだが、何を演じてもハンサムで、何を演じてもゲーブルやウェインにしか見えない。彼らは役を演じているのではなく、スターを演じていたのだ。
ブランドは違った。彼の演技はあまりにリアルで迫真的で、役の中の人物にしか見えなかった。マーロン・ブランドという生身の人間の存在感は意外に薄かった。ドン・コルレオーネを演じるとマフィアのボスにしか見えず、「ラスト・タンゴ・イン・パリ」では性愛に溺れていく中年男にしか見えず、「地獄の黙示録」のカーツ大佐はまったく異なるキャラクターで、ジャングルの奥に潜む狂った軍人そのものだった。スターではなく、アクターであること。このあり方は、多くの映画俳優に大きな影響を与えた。
だから衝突もあった。「ラスト・タンゴ・イン・パリ」では、監督のベルナルド・ベルトリッチがブランドに「ありのままの自分」をさらけ出すことを求めた。
「そんなことはごめんだ。『私を何だと思っている』と言いたい」(本作より)
マーロン・ブランドは他人からの干渉を嫌がり、誰にも心の奥底を見せなかった。人嫌いで、誰にも心を明かさず、不幸をかかえこんだまま、孤独に死んでいった。ところが、だ。なんと孤独で自分を語らなかったブランドは、生前に約300時間もの長さの音声を録音していたのだという。その録音テープが遺産管理団体によって発見され、すべてを赤裸々にかたるブランドの姿がそこにはあり、そして本作の映画となった。
ブランドは自身の心の奥底を存分に語っている。それは苦しいほどに孤独だけれども、同時にすばらしく深く洞察され、ユーモアも悲しみも喜びもある。静かに語るブランドの声はしゃがれているけれども美しく、何度も何度も聞きたくなる魅力にあふれている。
http://eiga.com/extra/sasaki/34/

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台湾の小学生らが白老・アイヌ民族博物館訪問し交流

2016-01-28 | アイヌ民族関連
室蘭民報 【2016年1月27日(水)朝刊】
 台湾の先住民族の小学生や引率の教諭ら20人が26日、白老・アイヌ民族博物館を訪問、アイヌ民族の伝統的な遊びを体験したほか、子どもたちは歌や踊りを披露、両国先住民が交流絵巻を繰り広げた。
 排湾(パイワン)族と阿美(アメイ)族の子どもたちは、同博物館が昨年11月に博物館協定を締結した台湾・屏東県の「原住民委員会・文化園区」に近接する牡丹国民小学校に在籍する5、6年生13人。同博物館の野本正博館長が「大変楽しみに待っていました。きょうは一日、アイヌ文化を体験してください」と歓迎。同小の楊(ヨウ)瑞麟(ルェイリン)校長が「子どもたちを連れてこられてうれしく思います。両国の先住民が熱く交流できたらと思います」とあいさつ、両者がプレゼントを交換した。
 同博物館を拠点に人材育成プログラム「担い手育成事業」を受講するアイヌの若者6人が、阿寒地域に伝わるアイヌ民族の遊び・ネズミの踊り(エルム・リムセ)を実演。「スンカイノ、アキナクスハラリソー」と歌が流れる中、今度は子どもたちが帯の輪の間からサッと手を入れてお菓子を取る遊びを楽しんだ。
 民族衣装の子どもたちは、収穫祭などめでたいときに歌う歌や数え歌、離ればなれになった友達を思う歌、「日本語の歌詞を覚え、一生懸命練習しました」という日本語の歌などを、踊りを交えて披露。最後は同博物館職員も加わって台湾の踊りを輪になって踊った。昼食にアイヌ民族の伝統食を食べ、伝統楽器・ムックリの製作にも取り組んだ。
 5年生の盧(ルー)亮語(リャンユ)さんは「すごく楽しかった。珍しいところもたくさん見られた。ネズミのゲームが一番印象に残っています。小学校に戻ったらアイヌ民族のことを伝えたい」と話した。
(富士雄志)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2016/01/27/20160127m_08.html

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台湾先住民族の児童ら北海道・白老に アイヌ民族と交流

2016-01-28 | アイヌ民族関連
北海道新聞 01/27 10:03

アイヌ民族の若手担い手と交流する子どもたち
 【白老】台湾・屏東(へいとう)県の牡丹(ぼたん)国民小学校に通う、パイワン族とアミ族の児童ら20人が26日、アイヌ民族博物館を訪れた。アイヌ民族の若者らと歌や踊りなどを通して交流した。
 昨年11月に同館が、屏東県にある先住民族の国立博物館と協定を結んだことがきっかけ。子どもたちに異民族との交流を通し、互いの歴史や文化、生活習慣などを学ばせようと同館が派遣した。
 一行は、アイヌ民族博物館のかやぶきのチセ内でアイヌ文化の若手担い手らと交流。エルムンリムセ(ねずみの踊り)と呼ばれるアイヌ民族伝統の歌に合わせて、素早くお菓子を取る遊びなどで交流を深めると、緊張がほぐれ、満面の笑みを浮かべた。
 子どもたちも民謡など伝統音楽に合わせて歌や踊り、楽器演奏を披露した。
 小学5年の盧亮語(ルーリャンユ)さん(11)は「アイヌの伝統衣装は色の組み合わせがきれい。滞在中にスケートをするのが楽しみ」と話した。アイヌ文化の担い手の1人、中井貴規さん(38)は「台湾の子どもたちの素晴らしい歌や踊りにびっくりした」と話していた。
 一行は明日以降、知里幸恵銀のしずく記念館(登別)などを見学し、29日に帰路に就く。(土屋航)
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/area/doo/1-0227746.html

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