毎日新聞2016年1月10日 地方版
国内流通、渡来銅貨など38万枚
函館市東部にある中世に和人が築いた城館跡「志苔館(しのりたて)」(国史跡)近くの道路工事現場から1968年、大量の古銭が入った三つの甕(かめ)が見つかった。主に中世に国内で流通していた渡来銅貨で、その数は38万枚。1カ所から発見された古銭としては国内最大の量で、「志海苔(しのり)出土銭」として国の重要文化財に指定されている。誰が、何のために埋めたのか。想像が膨らむ。【文・写真、坂本智尚】
大量の古銭は、志苔館跡から西へ約100メートルにある志海苔川の河口付近で見つかった。銭がぎっしりと詰まった三つの甕は、地表から約50センチ下に5メートル間隔で並んで埋められていた。
総重量1・6トン。「銭の重量で甕が壊れるため、先に地面を掘り、甕を埋めてから銭を中に入れたとみられます」と市立函館博物館の保科智治学芸員(48)。古銭は同博物館に運ばれ、日本銀行函館支店の協力を得て5年がかりで洗浄、分類などが行われた。93種類、38万7514枚に上った。「皇宋(こうそう)通宝」「元豊(げんぽう)通宝」など10世紀半ば〜12世紀初めに鋳造された中国の北宋銭が85%を占めており、最古は前漢代の「四銖半両(よんしゅはんりょう)」(8枚)で初鋳紀元前175年。最も新しいのは明代の1368年初鋳の「洪武通宝(こうぶつうほう)」(13枚)で、約1500年にわたる銭で構成されていた。
一方、甕のうち二つは福井県の越前古窯、一つは石川県の珠洲窯で14世紀中・後期に焼かれた日常用の付(つけたり)甕と呼ばれるもの。甕の製造時期や、15世紀前期には国内に出回っていた明銭の「永楽通宝」が含まれていないことから、甕が埋設された時期は14世紀末〜15世紀初めごろと推定されている。
◇ ◇
志苔館跡は、函館市の中心部から東へ約9キロ。海岸沿いを走る国道278号から北に入り、急勾配の坂道を上った海抜25メートルの海岸段丘の上にある。「しのり」という地名は南北朝時代以前から古文書にみられ、志海苔のほか、志苔、志濃里、志法とも記されていた。
鎌倉時代から戦国時代にかけて、出羽国(現在の秋田県)、陸奥国(青森県)北部と蝦夷地南部に勢力を振るっていた安東氏が築かせた道南の12の館(たて)のうち最も東に位置する。志苔館は14世紀後期に安東氏の配下の豪族だった小林氏が築き、約100年間、交易や領地支配の拠点にしていたとされる。
江戸時代に書かれた松前藩の史書「新羅之(しんらの)記録」によると、1457年の「コシャマインの戦い」でアイヌ民族に攻め落とされ、戦いの後、再び小林氏が居住。しかし1512年にもアイヌの蜂起があり、館が陥落し、廃館になったとされる。
志海苔地区は、旧銭亀沢(ぜにがめざわ)村にあり、古銭発見の2年前の1966年に函館市に編入された。保科学芸員は「埋設時期から考えて、館主の小林氏など志苔館の関係者が埋めた可能性が高いが、なぜ、館内の敷地に埋めなかったのか疑問だ。出土地点は川のそばにあり、『ぜにがめ沢』の地名も、偶然ではないように思える」と話す。
「備蓄」「埋納」の2説 函館大教授・田中浩司さん
中世経済史を研究している函館大の田中浩司教授(53)は「南北朝時代に北海道で本州と同じく活発な銭貨流通が成立していたことを示す重要な証拠」と出土銭の意義を説明する。
14世紀後半には道南と関西を日本海ルートで定期的に往来する海路があり、函館の東側海岸で採取された昆布をはじめ、アイヌとの交易による毛皮やサケなどが北陸経由で京都、大阪方面へと盛んに移出された。港があった志海苔は、その出荷拠点だった。
埋設されたのは▽交易による代価を保管した「備蓄説」▽神仏に寄進した「埋納説」−−の2説があり、田中教授は「これだけ大量の銭を埋納するとは考えにくく、志苔館の有力者が交易でもうけた利益を蓄えたものではないか」と推測する。一方、「裏付ける文献や資料は少なく、埋納説も否定はできない。謎は多いが、いろいろ想像を巡らせることができる意味で、分かり過ぎないのもいいのではないでしょうか」と語る。
◆国重要文化財「志海苔出土銭」
1968年函館市志海苔町の道道(現在は国道)拡幅工事の際、発見された。93種類、総数38万7514枚。皇宋通宝(北宋)、開元通宝(唐)、漢通元宝(後漢)など中国からの渡来銭がほとんどで、和同開珎、延喜通宝など日本の皇朝銭は8種類15枚、朝鮮やベトナムの銭が55枚含まれており、9928枚は鋳名不詳。2003年国の重文指定。市立函館博物館(函館市青柳町17の1)で公開。
◆国史跡「志苔館跡」
14世紀末から16世紀半ばにかけて、本州から移住した和人の豪族小林氏が居住していたとされる中世城館跡。敷地は台形で東西70〜80メートル、南北50〜60メートル、面積約4100平方メートル。建物、木柵、井戸、橋などや周囲に巡らされた壕(ほり)と土塁の遺構がある。1934年に国の史跡指定。77年周辺地が追加指定された。函館市志海苔町。
http://mainichi.jp/articles/20160110/ddl/k01/040/097000c
国内流通、渡来銅貨など38万枚
函館市東部にある中世に和人が築いた城館跡「志苔館(しのりたて)」(国史跡)近くの道路工事現場から1968年、大量の古銭が入った三つの甕(かめ)が見つかった。主に中世に国内で流通していた渡来銅貨で、その数は38万枚。1カ所から発見された古銭としては国内最大の量で、「志海苔(しのり)出土銭」として国の重要文化財に指定されている。誰が、何のために埋めたのか。想像が膨らむ。【文・写真、坂本智尚】
大量の古銭は、志苔館跡から西へ約100メートルにある志海苔川の河口付近で見つかった。銭がぎっしりと詰まった三つの甕は、地表から約50センチ下に5メートル間隔で並んで埋められていた。
総重量1・6トン。「銭の重量で甕が壊れるため、先に地面を掘り、甕を埋めてから銭を中に入れたとみられます」と市立函館博物館の保科智治学芸員(48)。古銭は同博物館に運ばれ、日本銀行函館支店の協力を得て5年がかりで洗浄、分類などが行われた。93種類、38万7514枚に上った。「皇宋(こうそう)通宝」「元豊(げんぽう)通宝」など10世紀半ば〜12世紀初めに鋳造された中国の北宋銭が85%を占めており、最古は前漢代の「四銖半両(よんしゅはんりょう)」(8枚)で初鋳紀元前175年。最も新しいのは明代の1368年初鋳の「洪武通宝(こうぶつうほう)」(13枚)で、約1500年にわたる銭で構成されていた。
一方、甕のうち二つは福井県の越前古窯、一つは石川県の珠洲窯で14世紀中・後期に焼かれた日常用の付(つけたり)甕と呼ばれるもの。甕の製造時期や、15世紀前期には国内に出回っていた明銭の「永楽通宝」が含まれていないことから、甕が埋設された時期は14世紀末〜15世紀初めごろと推定されている。
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志苔館跡は、函館市の中心部から東へ約9キロ。海岸沿いを走る国道278号から北に入り、急勾配の坂道を上った海抜25メートルの海岸段丘の上にある。「しのり」という地名は南北朝時代以前から古文書にみられ、志海苔のほか、志苔、志濃里、志法とも記されていた。
鎌倉時代から戦国時代にかけて、出羽国(現在の秋田県)、陸奥国(青森県)北部と蝦夷地南部に勢力を振るっていた安東氏が築かせた道南の12の館(たて)のうち最も東に位置する。志苔館は14世紀後期に安東氏の配下の豪族だった小林氏が築き、約100年間、交易や領地支配の拠点にしていたとされる。
江戸時代に書かれた松前藩の史書「新羅之(しんらの)記録」によると、1457年の「コシャマインの戦い」でアイヌ民族に攻め落とされ、戦いの後、再び小林氏が居住。しかし1512年にもアイヌの蜂起があり、館が陥落し、廃館になったとされる。
志海苔地区は、旧銭亀沢(ぜにがめざわ)村にあり、古銭発見の2年前の1966年に函館市に編入された。保科学芸員は「埋設時期から考えて、館主の小林氏など志苔館の関係者が埋めた可能性が高いが、なぜ、館内の敷地に埋めなかったのか疑問だ。出土地点は川のそばにあり、『ぜにがめ沢』の地名も、偶然ではないように思える」と話す。
「備蓄」「埋納」の2説 函館大教授・田中浩司さん
中世経済史を研究している函館大の田中浩司教授(53)は「南北朝時代に北海道で本州と同じく活発な銭貨流通が成立していたことを示す重要な証拠」と出土銭の意義を説明する。
14世紀後半には道南と関西を日本海ルートで定期的に往来する海路があり、函館の東側海岸で採取された昆布をはじめ、アイヌとの交易による毛皮やサケなどが北陸経由で京都、大阪方面へと盛んに移出された。港があった志海苔は、その出荷拠点だった。
埋設されたのは▽交易による代価を保管した「備蓄説」▽神仏に寄進した「埋納説」−−の2説があり、田中教授は「これだけ大量の銭を埋納するとは考えにくく、志苔館の有力者が交易でもうけた利益を蓄えたものではないか」と推測する。一方、「裏付ける文献や資料は少なく、埋納説も否定はできない。謎は多いが、いろいろ想像を巡らせることができる意味で、分かり過ぎないのもいいのではないでしょうか」と語る。
◆国重要文化財「志海苔出土銭」
1968年函館市志海苔町の道道(現在は国道)拡幅工事の際、発見された。93種類、総数38万7514枚。皇宋通宝(北宋)、開元通宝(唐)、漢通元宝(後漢)など中国からの渡来銭がほとんどで、和同開珎、延喜通宝など日本の皇朝銭は8種類15枚、朝鮮やベトナムの銭が55枚含まれており、9928枚は鋳名不詳。2003年国の重文指定。市立函館博物館(函館市青柳町17の1)で公開。
◆国史跡「志苔館跡」
14世紀末から16世紀半ばにかけて、本州から移住した和人の豪族小林氏が居住していたとされる中世城館跡。敷地は台形で東西70〜80メートル、南北50〜60メートル、面積約4100平方メートル。建物、木柵、井戸、橋などや周囲に巡らされた壕(ほり)と土塁の遺構がある。1934年に国の史跡指定。77年周辺地が追加指定された。函館市志海苔町。
http://mainichi.jp/articles/20160110/ddl/k01/040/097000c