先住民族関連ニュース

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登別でアイヌ文化講座…地名の由来などの知識深める

2015-01-19 | アイヌ民族関連
室蘭民報 【2015年1月18日(日)朝刊】
 登別市教育委員会主催のアイヌ文化講座「学んでわかるアイヌ文化」が17日、登別市民会館で開かれ、北海道アイヌ民族文化研究センターの小川正人さんらが、アイヌ民族の歴史や文化、郷土の地名の由来について紹介した。
 アイヌ文化を正しく理解する目的で開催し今回で5回目。登別、室蘭、伊達、白老から56人が参加し、小川さんと知里真志保を語る会の小坂博宣事務局長が講演した。
 小川さんは「山田秀三とアイヌ語地名」と題し、「道内の8割ほどがアイヌ語地名」と話した。北海道曹達の初代社長で北海道・東北のアイヌ語地名を詳細に研究した山田氏の功績と、薫陶を受けたアイヌ研究の第一人者・金田一京助の出会いなどを紹介した。
 小坂さんは、室蘭地方のアイヌ語地名や、山田氏が生涯を通じて深い交友を結んだ登別市出身のアイヌ語学者・真志保の顕彰碑などについて説明。参加者は熱心にメモを取っていた。
(後藤満)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2015/01/18/20150118m_04.html

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日本人制作の台湾先住民LINEスタンプが登場 アミ族など23民族

2015-01-19 | 先住民族関連
中央社フォーカス台湾 2015/01/17 15:09

(台北 17日 中央社)台湾原住民(先住民)をモチーフにしたLINEスタンプ「台湾原住民 Boys & Girls」がこのほど発売された。政府認定の16族に7つの平埔(へいほ)族を合わせた23民族が描かれている。
スタンプは「再見」(さよなら)などの挨拶のほか、アミ族は明るい太陽、セデック族は出草(首狩り)、ウィスキーの名前にもなっているクバラン族は乾杯、ホアンヤ族は伝統行事のマラソンなど、各民族のイメージを盛り込んだ内容になっている。
台湾のブラックメタルバンド、ソニック(閃霊)の公式スタンプも手掛けている日本人イラストレーターの「NAIMEI」さんは、このスタンプが台湾原住民を知るきっかけになればと語っている。
(編集:杉野浩司)
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201501170003.aspx

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(@廬山温泉)セデック・バレの世界へ

2015-01-19 | 先住民族関連
朝日新聞-2015年1月17日00時00分
■特派員リポート 鵜飼啓(台北支局長)
 そこに行ってみようと思ったのは、以前取材で知り合った台湾の先住民、セデック族の人から「ふるさとにはいい温泉があるんだ」と聞いていたからだ。
 日本統治時代の1930年、台湾中部で過酷な統治に反発したセデック族の一部が蜂起し、日本人を襲撃する「霧社事件」が起きた。事件を取り上げ、2013年に日本でも劇場公開された映画「セデック・バレ」をご存じの方も多いだろう。ふるさとはその霧社からさらに山奥にあるのだという。
 地元でキャンプ場を経営するセデック族の林学益さん(43、セデック名はアウィ・ワリス)を紹介してもらい、現地を訪ねることにした。
 台北から車を飛ばして約3時間。霧社を越え、さらに30分ほど走ると谷間に温泉街が見えてきた。南投県の廬山温泉だ。近くの山が富士山に似ていたことから、日本統治時代には「富士温泉」と言われていた(もっとも、その富士山に似た山というのがどれなのかいま一つ分からなかった…)。
 林さんのキャンプ場「沙庫斯(サクス)露営区」は温泉街のさらに奥にあった。妻の周淑珍さん(39、クム・ワリス)と2人で迎えてくれた。
 地元の話を聞こうと訪ねたのだが、話は当然のように霧社事件に及んだ。
「ここから5分くらいのところにモナ・ルーダオは住んでいたんだ」。モナ・ルーダオは霧社事件で襲撃を率いたセデック族のリーダー。廬山温泉はモナ・ルーダオの集落「マヘボ社」があったところなのだ。
 台湾で日本統治が始まったのは1895年。だが、すぐに全土を完全に掌握したわけではなかった。特に先住民が多く住む山岳地帯に入り込むまでには時間がかかった。1897年には、霧社を経て台湾西部の花蓮まで鉄道敷設の調査をしようとした日本軍人らの一行が霧社近くで先住民に殺害される事件もおきた。台湾総督府はこれを受け、霧社地区との食料や生活必需品などの交易を禁じる封鎖作戦を展開。対立するほかの先住民の襲撃もあり、生活が苦しくなった霧社のセデック族が帰順したのは1906年になってのことだった。
 「日本統治時代、ここから山を二つ越えたところからヒノキを切り出していた」。林さんがキャンプ場から見える山を指さして教えてくれた。大人が3人で手をつないでようやく囲めるほどの大木を、セデック族が運んでいたのだという。登るだけでも大変そうな山だ。気が遠くなるような過酷な労働だったのだろう。こうした労働への不満が事件につながったとされている。
 セデック族の人たちは日本人にどういう思いを持っているのだろう。そう問いかけると、「非常に厳しく統治されたと聞いている。特に警察が厳しかった。自分たちの生活様式を維持することが許されず、給料も少ない。当時は不満が強かった」という。一方で、日本統治は先住民に教育の機会をもたらした。林さんの父親世代は日本語を流暢(りゅうちょう)に操る。林さんたちはほとんど日本語を話せないが、生活の中には日本語の単語が残る。「サトイモ」「リヤカー」「パンツ」。知っている単語を並べてくれた。
 「山の方を案内しよう」。そう言って、トラックに乗せてくれた。失礼ながらオンボロだ。「22年前の車だけど、まだまだ走るよ」。キャンプ場を出て少し走り、舗装されていない山道に入った。再生山(別名・安達山)という山だ。車一台がかろうじて通れるほどの広さだ。雑草がぼうぼうに生えていて、窓を閉めておかないと葉っぱや木の枝が入ってくる。
 ガードレールももちろんなく、下手したら斜面を転げ落ちそうだが、「いつも来ているから大丈夫」。林さんは器用に車を操ってどんどん登っていく。カーブが急で切り返さなければ曲がれないところも何カ所かあった。とてもじゃないが、現地の人でなければ入ってこられない。
 5分ほど登っただろうか。目的の場所に着いた。霧社事件の後、討伐に乗り出した日本側とセデック族の大きな戦いがあった場所だ。もともとここに、切り出してきた木材の登記所があったのだという。以前は建物があったが、今は木が生い茂っている。緑が印象的な、静かな場所だ。溝のくぼみが当時の面影をかろうじて伝えているが、ここで多くの血が流れたというのは不思議な感じだ。
 子どもの頃から狩りをしていたという林さんは山を知り尽くしている。社会人になり、自分で稼ぐようになると山に入る機会は減ったが、植物などに食べられた跡があると、食べたのがなんの動物なのか、どれくらいの大きさなのか大体分かるのだという。「これはイノシシ」。そんな話をしながら今度は沢を下り、キャンプ場に自ら引いたという温泉の源泉に連れて行ってくれた。
 実は廬山温泉には今、往事の華やかさはない。川をはさむように両側に並ぶ温泉街の旅館には、営業をやめたところも目立つ。2008年と12年に台風で川が氾濫(はんらん)し、多くの旅館が倒壊や浸水などの大きな被害を受けたためだ。地盤がゆるんで安全が確保できないとされ、温泉街全体を移転させる計画もある。地元の南投県によると、かつては60軒ほどあった旅館は今は18軒に減った。
 廬山温泉の源泉は2カ所あり、林さんが使っているのは温泉街近くのとは別の源泉だ。「子どもの頃はここでよく体を洗っていた」という。岩肌から温泉がしみ出し、オレンジ色に変色している。だが、足元には温泉業者が引く黒いパイプが何本も走り、雑然としている。「昔はきれいだったんだけど、変わってしまった」
 林さんは道すがら何度も「変わってしまった」と繰り返した。廬山温泉で旅館を経営する人の多くは漢族。もとも先住民の土地だったのに、いつの間にか奪われてしまったという思いもある。役場に赴任してきた人が知らぬ間に土地の登記を書き換えていたというようなこともあったのだという。
 林さんの家では、母親の張桂英さん(65、ウビン・ナウィ)が民族衣装の生地を織っていた。60年以上前の道具を使い、何本もの糸の間をたくみに棒を通して丁寧に織っていく。日本統治時代に民族衣装が歓迎されなかったこともあり、こうした生地を作れる人はほとんどいないという。張さんのように複雑な模様の機織りが出来るのは5人ほどだそうだ。
 さて、温泉だ。廬山温泉は強アルカリ性炭酸泉で、臭いも少なく飲用可ということから「天下第一泉」と呼ばれる。日本統治時代に知られるようになったが、けがをした動物が温泉に入って傷を癒やしていたという言い伝えもある。林さんのキャンプ地で温泉に入らせていただきながら、時代に翻弄(ほんろう)された先住民の暮らしを思った。
     ◇
 鵜飼啓(うかい・さとし) 台北支局長。1993年入社。青森、岡山支局を経て、中国重慶市に語学留学。香港、ワシントンの特派員、国際報道部次長、論説委員などを務め、2013年4月から現職。44歳。

http://www.asahi.com/articles/ASH1G53H8H1GUHBI018.html

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星空がシャンデリア!ウルルの野外レストランでディナーを

2015-01-19 | 先住民族関連
TABIZINE~人生に旅心を~Jan 15th, 2015
赤い土と夕日に輝く地平線を眺めながら、最高のディナーはいかがでしょう。
オーストラリアのウルル(エアーズロック)にあるレストランは、その名も「SOUNDS OF SILENCE」。
大地の静寂に耳を澄ませてみると、奇跡が生み出した地球の神秘的な景色が胸に迫ってきます。大自然の造形美がレストランの内装、澄み切った夜空に輝く星々がシャンデリアです。
アボリジニの聖地、Uluru

(C)Flickr/Chris Ford
オーストラリアにあるエアーズロックは世界最大級の一枚岩です。先住民族のアボリジニたちは「ウルル」と呼び、聖なる場所として古くから崇めてきました。広大な大地と巨石が織りなす風景に、朝、昼、晩それぞれの光の照明が加わり、言葉にできないほどの美しさを放ちます。
SOUNDS OF SILENCEで忘れられないディナーを
ウルルは一年を通して暖かく、真冬でも最高気温は20度前後となります。砂漠気候であるため寒暖差が大きく、日中は暑い陽射しに悩まされても、夜になると爽やかな空気が満ちて気持ち良く過ごせます。
SOUNDS OF SILENCEは、そんな夜のウルルを満喫できるレストランです。
沈みゆく夕日をゆっくりと眺めながら、スパークリングワインで乾杯しましょう。
時期によっては、詩の朗読や民族楽器の演奏、星の鑑賞会など様々なイベントも行われます。お食事を楽しみながら夜空に目を向けると流れ星を発見、ということも。テーブルで一緒になったほかの観光客との会話も楽しみのひとつです。
オーストラリアの雄大さを味わえるレストランで、素敵な夜を過ごしてみたいですね。
(内野チエ)
http://tabizine.jp/2015/01/15/27619/

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