東京新聞-2015年1月22日 朝刊
満州事変が勃発した八十四年前、日本統治下にあった台湾の学校が夏の甲子園で旋風を巻き起こした。初出場で決勝まで勝ち進んだ嘉義(かぎ)農林(嘉農)。日本人、漢人、台湾原住民(先住民族の台湾での正式呼称)の混成チームによる実話を基にした、永瀬正敏主演の台湾映画「KANO~1931海の向こうの甲子園~」が二十四日から日本公開される。 (安田信博)
永瀬が演じたのは“コンピョウさん”の異名を取り、沈着冷静、理路整然とした近藤兵太郎(ひょうたろう)監督。母校の松山商業を一九一九年に全国大会に導いた実績があり、二九年に監督就任。当時の台湾で混成チームは珍しく、守備にたけた日本人、打撃の強い漢人、俊足の原住民という各民族の特性を見抜き、弱小だったチームを猛特訓で鍛えた。映画では、現地人を見下すような態度を取る日本人有力者に、永瀬が「野球に人種なんか関係ない」と猛反発するシーンも描かれている。
「こんな素晴らしい物語が、台湾で歴史として記録されてこなかったのは恥ずかしく、腹立たしかった」。脚本、製作総指揮を担当した魏徳聖(ウェイダーション)プロデューサーは映画化を決断した理由をこう明かす。日本統治下の台湾で起きた原住民の抗日暴動「霧社(むしゃ)事件」を描いた映画「セデック・パレ」製作の際、歴史を調べている過程で、霧社事件の翌年に民族の違いを超えて結束した「KANO」の快挙を知ったという。
「幸運だったのは、学校の同窓会が多くの資料を持っていたこと、さらに二番打者の蘇正生(そしょうせい)さんがご存命だったこと(二〇〇八年死去)です」
中国語圏最大の映画賞、台湾・金馬奨の主演男優賞候補に日本人俳優として初めて選ばれた永瀬は、役作りのため、松山商業時代の教え子らへの聞き取りを行い、人柄や指導法などを学んだという。「彼は撮影に入る時、既に近藤監督になりきっていた。役者としてだけでなく、クリエーターの一員としても大きな役割を果たした」
オーディションで選んだ選手役は全員野球経験者で、日本人以外は演技経験のない素人ばかり。それぞれ自身の民族を演じた。投打の柱、呉明捷(ごめいしょう)投手を演じた曹佑寧(ツァオヨウニン)は輔仁(ふじん)大学の野球部員で、台湾代表チームのメンバーにも選ばれている実力派。
「観客を納得させるためには、リアリティーが必要。演技は教えることができるが、野球はそうはいかない。野球経験は譲れない一線でした」
戦前の甲子園球場、嘉義の街並みを巨大セットで再現した映画は昨年二月に台湾で公開され、興行収入十億円を超える大ヒットを記録。台湾からの甲子園球場見学客が急増し、嘉義市では「コウシエン」という単語が流行する社会現象も生まれたという。
「日本統治下の台湾では、いいことも悪いこともあったが、これから日本人もわれわれも未来に向かって生きていく。一つの目標に向かって、手を携えて共同作業に当たれば奇跡も生まれる。信念、前向きなエネルギーがあれば道は開けるというメッセージをこの映画を通して伝えたい」
◆台湾代表として出場、準V
<嘉義農林学校> 1931年の第17回全国中等学校優勝野球大会(現・全国高校野球選手権大会)に台湾代表として初出場。胸に「KANO」の文字をあしらったユニホームで、神奈川商工を3-0、札幌商業を19-7、小倉工業を10-2で撃破。決勝では中京商業に0-4で敗れたが、混成チームの快進撃は全国のファンに強烈な印象と感動を与えた。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/news/CK2015012202000179.html