教育界の様ざまな分野で、
一人ひとりを大切にする教育が言われている、
一人ひとりを大切にするとは、
どのように理解されるのだろうか、
この言葉は、
キリスト教学校だけではなく、
公立学校も教科指導において、
学校生活全般においても、
根底に置く教育姿勢として強く訴えられている、
誰もがその通りと思う、
一人ひとりに注意を向けるとなると、
一人の教師にとって、
その数は限られて来る、
全ての教師が一人ひとりを大切にする姿勢を持つことにより、
一人の者を多角的に見ることができるとも言う、
それでも、
直接関わる児童生徒学生の数は、
少ない方が、
一人により細やかに時間をかけることができる、
学校を運営するにも、
教師と校舎と施設と備品が当然のこととして必要となる、
そのそれぞれが優れたものでありたいと願う、
学校は私塾ではない、
ある一定の規模を持ち、
小さな社会として、
外に開かれていなければならない、
その学校が理想とする教育の規模があるはず、
しかし、
その学校の教育規模を見定めることは難しい、
理事会ではなく、
その決断は、
その学校の教職員にかかっている、
昨今、
定員の割れた、
私立小学校・中学校・高等学校・大学が出てきている、
創立以来歴史を重ね、
社会に有意な人たちを送り出してきた、
その者は社会の底辺に生き、
社会の一隅を照らす者であったかもしれない、
いずれも、
社会の中に会って、
そこに住む者と共に生きる者であった、
一人ひとりを大切にして生きて行く者として、
巣立っていた、
その者たちとは、
現実がどれほど厳しく、
絶望的であったとしても、
その現実の先に希望を見出し生きる生き方を、
選んだ者たちであった、
今まさに、
現実の厳しい状況の下、
存続の危機に直面している学校がある、
1世紀を経て地域にあって教育活動を紡いできながら、
様ざまな学校改革を重ねても、
結果が伴わないとしたならば、
どうすればよいのか、
学校責任者の苦悩は続く、
残されたことは何か、
自らが語ってきた言葉を思い起こし、
その言葉を生きることが唯一残されていた、
「詮方尽くれども、希望(のぞみ)を失わず」、
文語聖書コリントⅡ4:8、
この言葉の下に、
私たちは集まり、
祈り語り合いたいと思う、
その日と時、
詳細は追って伝えられてくる、
別儀なれど、
小さな酒造店は、
大きな酒造会社に立ち行かず、
歴史を重ねた老舗が店を閉めて行った、
その中で、
自身の手の掛けられる範囲の規模を定め、
水と麹と酒蔵に聴きながら、
酒造りを続け、
過重な力を掛けることなく、
自然の重みにより滴り落ちて来る新酒を待つ、
それがこのあらばしり、
銘は無いが、
瓶に詰められた「新酒あらばしり」となった、
富田の小さな酒蔵、
鶴清酒造、
それぞれ出ているが、
最後の一本が、
麹の声に聴きながら大切に育てた、
乾坤一擲のもの、