名古屋季節だより

京都・静岡・宝塚・東京・横浜、
そして尾張名古屋からの季節だより

萌えいずる

2013-02-28 15:04:25 | 日記
如月 晦日
雨水末候 草木萌動(草木、めばえ動ずる)

   
               (ラベンダー)


早朝の寒気の中、昇る陽から一日の温もりが伝わる。

   


付けたり

キリスト教学校に勤める皆さん、
「既にそれを得たというわけではなく、キリスト教学校で続けられてきたこと」
初等・中等教育では、
児童・生徒にさまざまな教科・科目を教えます。
その基礎・基本の上に、自主性・国際性、協調力・創造力を培っていきます。
高等教育では、
次の段階として各自の専攻分野に応じて研究課題が設定され、研究を進めていきます。
学校において現実と理想の乖離が問われて久しいことも事実ですが、
実際はどうなのかは別として、そうあって欲しいと願いながら学校は運営されてきました。
教師もまた、教育の理想を願いながらも、
現実の厳しい状況の中で困惑を繰り返してきました。
まさしく、諦めないで続けてきたことに意味があるはずです。
では、人が諦めないで続けていくことを、何が後押ししたのでしょうか。

人の力の大きさだけが有用なのではないはずです。
個人の力の差だけではない、何かが人を動かしていたのです。
何かとは何か、
その何かに出会った者が、自分を越え、かつ自分自身になっていくのでした。
人はそこで「自分が在ること」に喜びを自然に感じたはずです。

信じ、祈り願うことを身を持って教えていく者に出会って、人は生かされていくのでした。

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煌めく川面

2013-02-26 08:27:06 | 日記
水ぬるむ春には、まだ遠いけれど、陽射しに少しずつ春を感じだす。
明るく煌めく川面に、凍えていた目線が吸い込まれていく。
しかし一方、日本海側、北海道・東北には、これまでにない寒波が襲来。
小さな日本列島にも、山を一つ隔てて日々の天候には大きな違いがある。

     


何処で何が起きているかは、誰もが瞬時に知ることができる情報社会。
情報は早いが、知るとそれで終わってしまう情報の足の速さにも驚く。
知ることの大切さを思うけれども、知ってしまうと、
そのことが分かっかのように思う怖さも知る。
そこに住み、生活して初めて分かってくるその土地の機微。

三つ葉のクローバーの花は、小さな白いボンボンだと思っていたが、
この花は何だろうと調べてみると、イモカタバミというらしい。
何時も見慣れていた、薄い紫色の小さなカタバミの何倍もの大きさに驚く。
砂利の混じった道の端にも力強く生えている。
まさしく野の花。
ここ唐津には早すぎる小さな春が来ていた。

     


付けたり

キリスト教学校に勤める皆さん、
「疲れている体」
心が疲れると、体も疲れてきます。
洪水のような情報にいつも囲まれていると、
人が人に出会って、ほっと息つくのでしょうが、
半面、人との出会いに疲れてしまうことも多くあります。
口を突いて出て来る言葉が、愚痴ばかりになってきそうだと感じた時、
心の病んだ疲れに、日頃見過ごしていた野の花に目を注いでみてはどうですか。
都会の舗装された道路にも、かろうじて残された埃のような土を見つけます。
そこに生えている、名の知らぬ草花、
何時も忙しさに見ても見ず、通り過ぎていた周りに、
目を止めると気づきだす世界があるものです。
心が捜しだすと、見えなかった世界が見えてきます、自分だけの世界です。



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春降る日

2013-02-25 08:46:18 | 日記
早朝の寒さはまだなお厳しく、かじかむ体を通勤電車に押し込む日々、
ツンツン冬枯れの枝が、春の装いを心待ちにして、
一枝一枝、天空に向かって春衣を求める。
その願いに応えるがごとく、陽が高く昇ると、
光の春が、黄色い小さなミモザの花と化して、天空より降り注ぐのを見る。


      

   



付けたり

キリスト教学校に勤める皆さん、
「帰属意識」
自分の勤務先が、何を大切して運営されているかを、そこに勤める者が知って勤めているかどうかは、その勤務先にとっても、本人にとっても、とても重要だと思うのですが、如何でしょうか。
多くの人が就職を考える場合に、その企業は何を大切にして会社が運営されているかを知って、面接に臨むと思いますが、どうでしょう。
昔風に言えば、会社の創業の精神、言うなれば社是。
今様に言えば、企業のアイデンティティ、ミッションステートメント。
その学校が大切にしているものとは何か。
クリスチャン、ノンクリスチャンを問わず、自身の勤める学校が大切にしているものを、知ることは、そこに勤める者の最大の関心事であって欲しいと願っています。



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江戸の街に雨が

2013-02-18 14:53:26 | 日記
本日、雨水。
東京は、暦のとおり午後から雨となる。冷たく凍えるような氷雨。
しかし、遠望する早稲田大学の木々が、冬の眠りから覚め出したように、
わさわさと動いている。
まだ堅い葉芽の衣の色に変化が起こってきたからか。
まさに、命は見えないところで息づいている。

キリスト教学校教育同盟の働きとは何かと問われれば、
少し立ち止まって、
自分について、周りについて考えてみる機会を提供することのように思う。
自分自身、
走り続けてきたことが、ここにきてどんな意味を持っていたのかと、
考えてしまうこともある。
人は自分を生きるためにこの世に命を与えられた。
確かに、人は自分自身を生きるために、走る。
しかし、自分の力ではいかんともし難くなり、走れなったときに初めて、
人はまさしく自分に出会うように感じる。
聖書の言葉、野の花を見よ、とはその通りに思う。
花は野にあるように、


     
     (タンポポではなく、ノゲシ〈野芥子〉だそうな)

     

     

     


「為(せん)方(かた)尽くれども、希望(のぞみ)を失わず。(文語聖書コリントⅡ4:8)」

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斎王の桜

2013-02-15 08:25:42 | 日記
立春末候、魚上氷。
割れた氷の間から魚が飛び出るという候。
氷に射す陽の光に、冷たさの中にも春の輝きを感じ、
冬枯れの枝に、凍りついた厳寒の冬とは違う、もさもさとした気配を見る。

「斎王の桜」
純白の小袖に緋袴の巫女をふと思い浮かべながら、冬枯れの齊王の枝垂桜に対面する。
心の思いと現実の姿に違和感を感じながら、視線を木の下に移すと、
そこに深紅の珊瑚にも優る南天の実を見つける。
不思議な取り合わせに心が躍る。
春をすっかり忘れていたが、もさもさの冬枯れの枝と深紅の玉を発見して、
春がまたやって来ることを感じる。



     

     




付けたり

キリスト教学校で教職を志す皆さん、
「学校のアイデンティティ」
周りの多くの学校と同じように、キリスト教学校もまた入試の日々を迎えている。
理想とする姿と現実との違和感を感じつつも、入試の厳しい現実を見据える。
この現実にどう応えるかが何時も、学校は問われている、
それは取りも直さず、その学校の教師自身が問われていること。

聖書の中の早春、「為(せん)方(かた)尽くれども、希望(のぞみ)を失わず。(文語聖書コリントⅡ4:8)」



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