西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

「現在の奈良と平城宮・京跡」(舘野和己さん講演)

2011-01-29 | 文化論、科学・技術論
昨日、奈良女子大学でJSA奈良の研究会があり、古代史専攻の舘野和己さん(奈良女子大教授)の表記の講演を聞いた。昨年は、平城遷都1300年祭りに全国から予想の250万人を超える380万人も訪れたとのことだ。私も、平城宮跡、復原・大極殿等に行ったが、京跡を色々歩いたかと言われると、殆ど歩いていない。

舘野さんのお話は色々興味あるところが多かったが、最後に「点としての史跡(平城宮跡、諸寺社)は知られても、面としての平城京への理解は?」と疑問を出されたところでは「そうだな、自分としては余り面という前に多様な線も行っていないな」と思った。

舘野さんの言われたヒントのいくつかをあげてみよう。
・朱雀門から東に二条大路を往くと、東大寺西大門跡にぶつかる。途中、奈良女子大構内の南側を通るが、この道が、奈良時代、天皇や皇后が宮中から東大寺に参詣する主ルートであった。朱雀大路の約74メートル幅に次ぐ約38メートル幅の大路であった。(今は4メートルほどの狭い道)
現在、東大寺の正門は、南大門になっているが、往時は西大門が正門であった。

・薬師寺と大安寺は、共に国が建てた寺で、南門は共に六条大路に面している。・・・

舘野さんは、現在の道路わきの主な所に「平城京○○大路に当たる」という表示と「平城京地図」を啓示したら、という提案をされたが大賛成である。

私は、一寸「外京(げきょう)」のことについて質問してみたが、先の線、面理解に関して、元興寺、興福寺、東大寺の配置について「思い」を述べてみた。出来た順は、以上の順で、元興寺は元々は南の飛鳥寺を移築したもので、日本最古の屋根瓦が現在ものっている。この寺は、蘇我氏の氏寺だった。その蘇我氏を亡ぼしたのが藤原氏(鎌足)であり、その氏寺が興福寺である。さらに奈良時代になって、聖武天皇、光明皇后によって外京の外の高台に興福寺を見下ろすように建てられたのが東大寺である。
元興寺は、その後、境内を切り売りして現在「奈良町」と言われている地域に成り、僅かに「極楽坊」しか現存していない。豪族の盛衰、天皇と豪族との関係等が都における位置取りに「反映」しているのかな。

まあ、これらについては色々の考え方があるようだ。

終わって、年一回の懇親会に6人で行った。ここでは、邪馬台国に関する話題などあれこれ古代史談義になり楽しかった。私は、読みたての『古事記』の話もしてみた。来年は古事記1300年となる。