西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

新幹線「ひかり」の途中臨時停車

2006-12-15 | 生活描写と読書・観劇等の文化
今日、東京へ出張で行った。「ジパング倶楽部」なので「ひかり」に乗って行った。静岡を過ぎた頃、アナウンスがあった。「ただいま、11号車のデッキで急病でお困りのお客様がおいでです。お医者様、看護師様のご協力をお願いします」すこしして「急病人は病院へ行くことになりました。そのため新横浜で一時、臨時停車します。なお停車しましてもドアは開きませんのでご了承願います」5分後「ただいま、急病人の方を病院へ送り出しました。5分の遅れで発車します。ご協力有難うございました」行き届いている。まあ、過去に色々あっただろうからマニュアルが確立してきたのだろう。新横浜のホームでは11号車が停まる辺りに救急隊が待機しているのが見えた。電話連絡により駆けつけたのだろう。私としては初めての体験だった。皆さんはどうですか。飛行機でもありそうですね。

工学部志向の時代(1960年代)

2006-12-15 | 金沢の思い出
先に、私が京大工学部(建築学科)に入学したのは1960年と言った。当時は、日本は1955年頃から本格的に始まった「高度経済成長」の真っ只中だった。大学進学希望の理科系生徒が目指すのは、医学部より工学部だったと言ってよい。それは1955年前後から始まったと言ってよい。もう少し前の1950年代でも医学部より工学部志向だったということを1954年(昭和29年)阪大理学部卒の野崎光洋先生(平安女学院大学教授、滋賀医大名誉教授、高津高校卒)が証言しておられる。野崎先生は、今、私の同僚だが、高校では私の大学先輩の上田 篤先生と同期だったらしい。
私の高校(金大附属高校)同期でも理科系トップクラスは医学部もいたが工学部で目立っていたと言えるのではないか。東大理Ⅰから原子核工学(一期生)に進んだ石田寛人君は科学技術庁事務次官からチェコ大使になったし、東工大大学院(機械工学)に行った林勇二郎君が現在、金沢大学学長である。金沢大学にトップで合格したのは医学部入学者ではなく工学部電気工学に行った林 彬君(現・金沢工大教授)だった。私のように京大工学部には三人入ったし、北大、東北大、阪大へも工学部へ行っている。金大、信州大、名工大、富山大、秋田大(鉱山学部)等、私学の早稲田、慶応等へも理工学部へ多く行った。大学教員になったのも医学部より工学部出身が多い。まあ工学部は「物づくり」、医学部は「人治し、人癒し」が目的で、現在、それに見合った人が進んだらよいが、現実には偏差値輪切りで中々上手くいっていないようだ。
今後は、更に生活環境、生活福祉の時代と思うが、どんなものだろうか。

濃青(ダークブルー)対淡青(ライトブルー)

2006-12-15 | 京都の思い出(学生時代)
私が京大工学部(建築学科)に入学したのは1960年だから、もう46年ほど前になる。京都に来たら、高校時代から知っていた早慶戦のように東大京大戦もある、と知った。残念ながら先ごろ亡くなった同級生の得田君(北野高校出身、松村組社長歴任)が入っていたアイスホッケーの東大京大戦を応援しに京都アリーナに行ったことがある。その時、東京からも東大応援団が来ていたが、旗が「淡青(ライトブルー)」だったと思う。対するに京大応援団は「濃青(ダークブルー)」だった。京大体育会雑誌も『濃青』というのではなかったか。後で知ったのだが、これらはイギリスのOxbridge(オックスフォード大学とケンブリッジ大学)に由来すると知った。ところが一番古いオックスフォードのスクールカラーが濃青で次に古いケンブリッジのそれが淡青と知って、日本の大学(官立)の古さ一、二のそれらと「ねじれている」のだが、どうしてか、分かっていない。とにかく、青は空の青であり、海の青である。シャガールの青というのもある。どなたか「ねじれ現象」について知っている方は教えて欲しい。