西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

鰤街道、鯖街道、塩の道・・・

2006-12-10 | 生活・空間・芸術と俳句・川柳・短歌・詩
今朝、鰤(ぶり)の照り焼きを食べた。で、テレビを見ていたら越中富山から飛騨高山を経由して信州松本にいたる鰤街道のことをやっていた。どうも全道中17日もかかるようだ。又、日本海側から内陸の信州松本に至る道として糸魚川からの塩の道もあるようだ。若狭の小浜から京都の出町柳に至る鯖街道というのもある。まあ、他にも○○街道があるのではないか。要するに海岸線の物産を内陸に運ぶ道の存在である。魚も内陸に運ぶには大体「生」のままという訳にはいかず、それこそ塩をふったり干したりの所謂「塩干(えんかん)もの」となる。京都の鯖寿司も保存食だった。

ル・コルビュジェ作「サヴォア邸」

2006-12-10 | 住まい・建築と庭
私の書いた関連ブログの一つ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/1d9a185507934e304769e695501d18de
ライトに引き続き、ル・コルビュジェ作「サヴォア邸」もビデオで見た。フランスのパリ郊外ポワシー村にあるサヴォア邸はパリ17区に住んでいた経営者サヴォア一家のための別荘である。設計はル・コルビュジェ(1887~1965)、44歳、1931年竣工である。75年前である。前のブログでも書いたが、コルビュジェ自身が提唱した「近代建築5原則」の標準解のような作品だ。で、ここではそこに直接含まれない二つの点について書いておきたい。(1)コルビュジェ一生を通じて追求した「光と影の建築」ということ。スロープも光に徐々に向かう装置だが、コルビュジェは「スロープは建築を楽しむ散策路」と言っていたようだ。(2)外観の白について、前のブログにも書いたが、今回、副題に「埋めこまれた記憶」とあったが、それはコルビュジェが若い頃に「ヨーロッパ史をさかのぼる旅」をしてギリシャ、ローマ、地中海建築を見て回った例えばパルテノン神殿の「白」をイメージしていたようだ。(又、壁の一部の青は、地中海の「青」であろう)
それにしてもライトにしろコルビュジェにしろ傑作が1930年代に生まれているのはどうしてであろうか。

フランク・ロイド・ライト作「カウフマン邸」(落水荘)

2006-12-10 | 住まい・建築と庭
「落水荘」についての私の昔のブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/01030fd25cc4fe18cc6f72ffed1abba1
NHKTVでビデオに撮ってあったフランク・ロイド・ライト作「カウフマン邸」(落水荘)を見た。そこに住み込んでいた家政婦ウェンディの語りによる演出である。落水荘のオーナーはピッツバークでデパートを経営していたカウフマン氏で、家族は奥さんと息子の三人だった。彼等は煙の都・ピッツバークから時々離れて暮そうとペンシルベニア・ベルランのこの森の中の地に別荘を造ろうとして建築家フランク・ロイド・ライト(1867~1959年)に設計を依頼した。ライトはアメリカ中部の草原地帯に生まれ、その風土の影響で、プレリー(草原)住宅と言う水平に長い線を持つ住宅を設計していた。ライトは1923年に日本で帝国ホテルを設計したが、その設計料の大半を浮世絵購入にあてたと言われたほどで、生涯にわたり6千点を収集した。実は、その浮世絵の中に、この落水荘のヒントになった絵があった。写真のそれで、前北斎為一作「諸国瀧廻り」の中の「木曽海道小野ノ瀑布」である。北斎77歳の1833年の作である。施主のカウフマン氏は設計を見て「私は、瀧を見て過ごそうとしたのに・・」と不満を言ったらライトは「瀧を眺めるのではなく瀧と共に暮すのです」と言ったらしいが、後にカウフマン氏も納得したようだ。1934年に設計にかかり1937年に完成した。この落水荘には幾つか特徴がある。(1)1階の広いリビングは天井が低く窓が大きい。これは若干の内部の「圧迫」が意識を外へと自然と向かわせることを計算している。(2)1階、2階、屋上と広いテラスがついている。この上から瀧を眺めおろすことも出来る。これも日本の外部の自然に近づく「縁側」の仕掛けを学んだかもしれない。内部からテラスへは段差がなく内外使ったパーティがしょっちゅう行われチャップリンやアインシュタインも来たようだ。(3)リビングから水辺に直接降りる階段があり、カウフマン氏のお気に入りだったようだ。アインシュタインもここを訪れたとき、ここを降りてはしゃいで服のまま水に飛び込んだらしい。(4)他の日本の影響として暖炉にかける湯沸しが日本の囲炉裏の自在鍵のようなもので引っ掛けられている。ソファに「座布団」がのっている。(5)外部の自然と内部を「つなぐ」有機的建築。外部の岩石(この家が出来る前は、カウフマン氏はこの上から瀧を眺めるのが好きだった)を内部の暖炉前まで引き込んだ。
(写真は、前北斎為一作「諸国瀧廻り」の中の「木曽海道小野ノ瀑布」)

農山漁村地域での災害復興を考える

2006-12-10 | 地域居住学
12月2日に広島で行われた建築学会中国支部農村計画シンポジウムで表記についていくつかの報告を聞いた印象をメモしておく。「ジャワ島中部地震災害」について神戸大学調査団で行かれた重村 力さんは、地域で手軽に手に入るレンガを使った「耐震レンガ造」の開発が大事だということ、仮設住宅は豊富に存在し簡便に作れる竹造りにしたらのモデル提案をしたとのことだが、これは正に「住民主義、現地主義」だな、と思った。
岡田知子さん(西日本工大)が報告された福岡県の玄界島での進行している復興事例は、ちょっと変だな、と思った。百数十戸の漁村で、確かに坂の昇り降りに苦労をしていたことも分かるが、殆ど歩いて全てに行ける地域空間で、各戸にガレージを持って自動車が通る4m道路を全てに通すのはどうなんだろう、と思った。グーグルアースで博多湾入り口にある玄界島を見て、なおさらそう思った。勿論、岡田さん達は、問題提起をしようと現地に入ろうとして非常な苦労をしているようだった。

「国土研の三原則」について

2006-12-10 | 地域居住学
昨日参加した「木村(春彦)先生の足跡と国土研」の会でも盛んに言及されていた「国土研の三原則」も木村先生が中心になってまとめられ打ち出されたと思う。それは、国土研究の目的、方法、に関するものだ。(1)住民主義・・地域住民のために調査研究する。(2)現地主義・・現地に行って状況をきちんと調べる。住民の意見もきちんと聞く。(3)総合主義・・偏った狭い専門的判断をするのではなく、国土研に結集している、あるいは外部の力も借りて総合的に判断する。というもので、私の調査研究の指針ともなっている。私は、これは「国土研」での方法に限らず、より普遍性のある方法と考えている。
で、現地主義について、木村先生自身、次のように述べている。「現地調査にはできるだけ(予算や時間が許すかぎり)、多専門、多人数、多数回行くのを原則とする。そして討論と総括は必ずその日に行い、必ず全員が自分の専門以外のことにも発言し、意見を述べる。そのことによって問題意識は高まり、総合性が前進する。」(「近畿の国土問題」No.9 1971.12)
これについて宇民 正さん(和歌山大学)は「木村先生は、現地調査は楽しい、と言われていたが、自分もそう思う」と言っておられた。私自身も30歳台に「国土研」から伊勢河崎に行ったり、三重県青山町に行ったが、確かに異分野の人たちとの共同調査、共同討論は楽しかったと思う。
次に、総合主義について、木村先生は「専門が原因を決定する」を防ぐのが総合主義がの重要な側面と言う。「専門が原因を決定する」例として「開発地の山腹崩壊」をあげている。「崩壊の原因について、気象学者は大雨が、地理学者は急峻な地形が、地質学者は弱い地質が、土木技術者は不完全な治山工事が、生態学者は貧弱な林相が、法律家は法的規制の不備が、財政学者は防災投資の不十分さが原因であるという。多くの専門家の総合討論は上記のように「専門が原因を決定する」のを防ぎ、真の原因が多くの現象の関連において発現することを客観的に明らかにすることができる。このような総合主義はまた、災害の不可抗力論を排除して、災害対策に具体的展望を与えるためにも重要である。」(「国土問題」No.15 1976.10)
これについて、専門性の深化との車の両輪で追求すべし、との意見があった。
今後とも木村先生の遺志を引き継ぐためにも「三原則」は深めていかねばなるまい。