明治の名工といわれた6世・白井半七(蘆斎)の作ではないかと思っています。
共箱で残っており、箱には「白井蘆斎」という印が押されています。「蘆斎」という号は4世・5世・6世の半七が名乗ったものだと読みかじっています。
宝船を形どってあり、本体の船に対して2種類の蓋が付属しています。本体には「壽ミ多川 半七」の陶印が、蓋裏には「半七」の陶印がみられます。
「壽ミ多川 半七」と名乗ったのは7世の半七(今戸で製作した最後の半七)までだと文献等には記されていますが、「蘆斎」は6世までとのことなので、6世の作なのかと思っているわけです。
昔の今戸焼の製品はろくろ挽きによるものの他に、こうした割型、抜き型による成形によるものもあったわけですね。土人形など当然割型による成形ではあるのですが、、、。
今戸神社(旧・今戸八幡)に残る狛犬の台座には「火鉢屋」「焙烙屋」という職種が表記してありますが、基本的には今戸焼の職人さんたちはろくろ挽きを基本として成形していたのでしょう。
このように型を使った成形で思い起されるのは「工芸志科」などの文献に「3世・半七」が土人形を作り始めたという記述があることです。しかし「半七家」といえば、白井家本家の「善次郎家」と並んで今戸焼の元締めでもあり、ネームバリューのあるアートィストというイメージを私は持っているので土人形のような当時として安価な製品を作ったのかどうか疑問に感じているのです。
都内の近世遺跡から出土している土人形の中に「半七」の陶印のあるものがみつかったという話はまだ聞いたことがありません。(私が知らないだけ?)
画像の香炉について話を戻します。型抜きによる成形ですが、非常に手が混んでいて、蓋部分の本体の上にひとつひとつ抜き出しためでた尽くしの細かいものが貼りつけてあります。一枚目の画像の蓋には鯛、巻物、珊瑚などが、2枚目の画像の蓋には金色の福俵のような細かいパーツが山積みされています。木地の上から彩色されていますが、膠溶きの泥絵具ではなく、楽焼用の下絵具を施してから透明な釉薬をかけてあります。
宝船というと、よい初夢をみるために、昔は宝船を描いた擦り物(絵草紙屋さんや物売りが売っていたとか、、)を求めて、枕の下に敷いたという話を聞きますし、現在でも東京の手摺り千代紙屋さんや縁起物屋さんで販売されていますね。絵には「なかきよのとをのねぶりのみなめざめなみのりぶねのをとのよきかな」(長き世の遠の眠りのみな目覚め波乗り舟の音の良きかな)という上から読んでも下から読んでも同じ言葉が添えてあります。これは香炉とは関係のない余談です。