最後の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のご生前の姿の一葉です。
今から20年ほど前に金澤家の写真原版から複写させていただいた画像のひとつです。金澤家の方から改めてブログへの掲載のお許しを得てご紹介させていただきます。
撮影時期は昭和10年代でしょうか?土人形の素焼きに描彩されているところの様子です。翁が手に持って色つけされているのは「招き猫の火入れ」です。描彩の手順としては墨を入れるのは最後のほうです。また干し板の上には後ろ右から「河童の火入れ」「洋傘姉さん」「金太郎」、その手前の列右から「羽子板持ち娘(大)」「子抱き(大)」「天神(大)」、またその手前の列右から「鉄砲狐」「羽織狐」「丸〆猫」「子守狐」、最前列に「口入狐(裃)」と「狐拳の狐」が並んで見えます。
翁の前の火鉢には五徳の上にすりこぎのようなものが入ったどんぶりが乗っていて、横には片手鍋のようなものが見えます。膠容器か何かでしょうか。
火鉢の縁や周りには胡粉や泥絵具のようなものが飛び散って見えます。
筆立ては陶製のように見えます。さまざまな面相筆、彩色筆に混ざって腰の短い毛先の平な筆も見えます。これは溶かした絵具ではなく、人形の顔部分などに粉の朱色を摺り込んでぼかしを入れる「ぼかし刷毛」か真鍮粉を上から蒔くときに使う刷毛ではないかと思います。後ろに見える白っぽい柄入りの火鉢は今戸焼のものではないような、、。
春吉翁は6代目乾山を名乗った浦野乾哉(繁吉)と親交があり、その弟子であったバーナード・リーチにも焼き物ひととおりの面倒をみていたという話を聞きました。リーチが千葉県我孫子に築窯する以前の本所の時代のことのようです。我孫子の窯の写真を観ると、今戸の窯の影響がみられるという話を聞きますが、そうだとすれば、師匠の乾哉氏からの影響は当然のこと、春吉翁からの影響もあったものかと想像することもできそうです。
春吉翁の娘さんの「はなさん」は若いころ美人で「今戸小町」と呼ばれて有名だったそうですが、「はなさん」と乾哉氏の長女「ナミさん」(尾形ナミ・乾女)とはいとこ同士で2人でよく遊んでいたというお話を伺いました。
昔の今戸焼の土人形の再現を目指したいとかねがね思っていますが、実際にやってみてはじめて昔の人の手間がいろいろわかるような気がします。
今戸の人形の古いものを観ると時代によって使われている色の素材の変遷がありますが、一般的には最後の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになった人形の配色や感触からのイメージが強いのではないでしょうか。
春吉翁の描彩は翁が実際に明治時代に父上の兼吉翁から教わったやり方だったことでしょうし、それは天保年間あたりからの今戸での描彩の伝統を引き継いだものだったかと思われます。
実際に春吉翁が絵付けしている現場を観たわけではないのですが、遺された人形から同じような効果をを出そうとして自分なりに試行錯誤しています。
一例として春吉翁のお作りになられた「月見兎」を手本として作ったものの描彩の手順をお伝えしたいと思います。(どの色も膠をつなぎとして混ぜます。)
①木地に胡粉の下地を施す。
②耳と目の部分にスカーレット染料を薄く溶いて膠を混ぜたものを置く。(スカーレット染料だけでは青みが強いのでサルホンオレンジ(樺粉)染料とピンク染料を混ぜる。)
③眼に墨で目玉を入れる。
④朱色で口を入れる。
⑤胡粉+群青で襟元と袖を置く。
⑥朱色で着物に色を置く。
⑦白緑(緑青+胡粉+黄色)で帯に色を置く。
⑧朱色の上から膠を冷ましたものをひいて照りをつける。
⑨群青で羽織部分に色を置く。
⑩帯部分に膠を上塗りし、真鍮粉を散らす。
⑪羽織部分の群青の上から極薄くした膠を置き、乾かない内に真鍮粉を散らす。
⑫目玉に膠を上塗りする。
以上の12工程で終わりです。
春吉翁の場合、眼耳と口は同じ赤系統の色でもスカーレット染料と朱色とで色を使い分けることが多いです。(例外もあるかもしれませんが、、。)また春吉翁は朱色の着物部分に胡粉の白で袷の線を入れるのですが、これだけは私はやっていません。(ちょっと説明的なような気がするので。)
春吉翁以前の今戸人形でも朱色(洋紅の場合もある)やベンガラ、墨の部分には上から膠で照りをつけ、緑や群青の上から真鍮粉を振ることが多くの作者がやっていることが多いです。
色数からすれば、地色の胡粉の白を含めて7色なのですが、照りをつけたり、真鍮粉を散らすための手間が重複している訳です。
私の場合「月見兎」には上記の12の工程で塗っていますが、春吉翁だったらもっと手際よくすすめていらっしゃったのかもしれません。
初午向けの招き狐の木地を目標数できたのでひと安心と思ったところ、持病の腰痛下肢痛が出てしまい、寝込んでいました。
最近発見したのですが、YouTbeに子供の頃よく観ていた夜中の天気予報の動画がありました。
影絵作家の藤城清治さん(昭和40年代、ケロヨンの作者としても有名)による影絵の動画によるもので、私が観ていた昭和40年代前半はまだ白黒映像で「銀行協会」の提供だったと記憶しています。
この時代、わが家のTVはまだ白黒で夜寝しなに親の観ていた番組を一緒に観ていました。「特別機動捜査隊」「キーハンター」「木曜日の女」など憶えていますが、夜10時代に東京12チャンネル(今のテレビ東京)で毎日このような天気予報が放映していました。YouTubeの動画はもっと時代の下った昭和50年代のカラー映像ですが内容としては子供の頃観た白黒のものと同じ傾向のものです。懐かしいです。
画像の毛人形(毛たたき人形とも)について、今戸人形とすることには賛否あることかとも思いますが、今戸焼の周辺で作られていたものであるかと思うので今戸人形の仲間としてとりあげたいと思います。
画像の人形には素焼きされているものと焼かれていない生土のものとがあります。今戸の土人形は今戸焼から生まれたもので素焼きした木地に泥絵具等で絵付けしたものですが、実際に残っているものの中には素焼きされていないものもあり、手間を省いたものや窯を持っていなかった人が作ったのではないかと思われるものもあります。聞くところによると、窯を持っていなくても七輪で焼いたというケースもあったそうです。更に干しただけで全く焼かないで絵付けしたケースもあったようです。
そんな訳で、人形に限っていえば、焼かれていない今戸人形も実在し、その周辺の一文人形やこの毛人形などの際物と今戸人形との厳密な境界線をひくかどうかは人によって見解が異なることでしょう。少なくても隅田川の周辺の土で作られていることは共通しています。
画像の毛人形には肝心の毛が失われているのでピーンとこないかもしれませんが、嘗てはシュロの毛の袴を履いていたと思われます。2枚目の画像の山本松谷(明治3年~昭和40年)による明治の子供遊びの石版画をご覧いただけば、どのような形状でどうやって遊んだかはおわかりいただけると思います。人形たちを立てた台面あるいは床面をトントンと叩いて戦わせ、倒れなかったほうの勝ち、あるいは紙などの土俵の上で取り組ませて勝負をします。画像のような力士や行司の姿の相撲の他、剣士姿や桃太郎と家来の姿のものもありました。
毛人形は京都のほかよそにもあったようです。人形本体が土ではなくて、練り物や張り子のものもあったようです。十数年前、北京の街中で、京劇の姿の毛たたき人形が売られているのを目にしました。
寒菊の鉢植えが欲しくなり、隣の川口まで行ってきました。川口の駅前からバスに揺られて20分弱?木曾呂という界隈まで来ると、信じられないくらいのどかな田園風景になります。
この辺りから安行にかけは有名な植木や花の産地で園芸店がぽつぽつあります。
残念ながら時期が遅すぎたのか店には寒菊の鉢植えはありませんでした。その代わりすごく大きな朝採りの大根が売っていたので買いました。
畑には冬枯れた菊も見えましたが、蝋梅の木があちらこちらにあってちょうど見ごろでした。
関東一円で蝋梅の名所といえば長瀞の宝登山が有名ですが、花を観に出かけたことはまだありません。深大寺など大きな植物園へ行けばそれなりに蝋梅もあることでしょう。しかし電車でひとつとなりの駅でこんな近くに咲いているのどかなところがあり、穴場だと思いました。
大きな大根を抱えての帰り道はしんどかったですが、おみやげになりました。
寒菊についてはまだあきらめきれません。この時期の縁日などには必ず売られているものなので日を改めて覗きに行ってみようと思っています。
最後の生粋の今戸人形師といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)による今戸焼の土人形です。
大相撲初場所が始まりましたので、とりあげてみました。全国各地に相撲力士をかたどった人形や玩具がいろいろとあったようですが、かつての江戸東京にも例に洩れずいくつかの素材(土・木・紙・おがくず)や形のものが作られていたようです。
伝世品や都内の近世遺跡からの出土品の中にはいくつか力士を題材にした土人形をみることができます。
この「不知火関」の人形などその中で特に知られたものではないでしょうか。
今戸人形の中では比較的大きなものの部類に入るのではないかと思います。
不知火諾右衛門は実在した肥後生れの力士(1801~1854)で8代の横綱だったそうです。しかし現在もみられる土俵入りの「不知火型」はその弟子である11代横綱・不知火光右衛門から始まったということです。
この人形は見るからに、元は伏見人形の力士の人形から型抜きされたできたものと考えられますが、配色や面描きなどいかにも今戸人形といった感じです。面描きの筆の走りが素晴らしいと思います。春吉翁は明治の終わりに一旦今戸人形の製作を中断され、関東大震災の後また製作をはじめられたそうで、この人形も再開後のものですが、型自体は昔から今戸で使われていたもののようです。春吉翁による他の人形への配色からみても、春吉翁以前のこの型の人形への配色は顔料の成分が異なったいるかもしれませんが、こうしたものだったのではないかと思います。ちなみに春吉翁は化粧まわしの朱色と群青色の部分の配色が逆転している彩色も残しておられます。
「不知火関」の人形には、この型よりもふたまわり小さなものもあります。
大・小いずれも髷の元結の部分には胡粉で×を入れてあります。
おととしだったか、台風で公園の南側のポプラの大木が倒れて、昔からあったキリンの滑り台を直撃したためだったか、その後すぐになくなってしまいました。
そして今、公園の北側、ダイエーのまん前にある古い遊具も取り壊しになっています。
公園の中で一番目を引く滑り台もまた封鎖され、まもなくなくなってしまうようです。
これらの遊具は私が幼稚園の年長組だった頃、公園内が整備されて新しく登場したものだったので、小学生の頃遊んだものです。
この滑り台、いかにもアントニオ・ガウディーのグエル公園の意匠をパクったという感じなのですが、左から曲線状の階段を登り、橋を渡って、右側の滑り台を下りてくる構造になっています。
取り壊しの理由として、老朽化や安全性の他、見えない死角が防犯上の欠陥となっているそうです。ご覧のとおり、真っ白だった壁面も年月を経て苔むしています。ただ、今後これだけ凝ったものを建造するとは考えられないので、時代の遺物として何らかの形で残すことはできないものかと思います。もったいないです。
ここは志茂銀座にある日本そば屋の「壽美吉」さん。前は何度も通りすぎていたのですが、今日はじめて入ってみました。
古い日本そば屋さんでも店内をリニューアルしているところが少なくありませんが、ここの店内は懐かしい佇まい。ほーっと落ち着きます。
使い込んだ塗りのお盆がまた懐かしい。旦那さんが作ってくれている間、猫さんが登場。お客さんにあいさつしているようです。(2枚目の画像の椅子の下にちらりと写っています。)
写真に撮らせてもらおうとしたら、テーブルの下に隠れてしまいました。
旦那さんに「2階にいなさい。」と言われて上がっていきました。
椅子はそんなに新しいものではないように思いますが、背もたれにところに「壽美吉」と透かしが入っているところなどいいですね。
毎度のことながら、お蕎麦屋さんに入って、うどんを注文してしまいました。
はじめてなのに懐かしい感じのお店でした。
素焼きしたもの全てに色塗りが終わったわけではないのですが、土いじりを再開。
というのも今年の初午は2月8日なので、王子の装束稲荷さまの「招き狐」を急いで作って、素焼きし、色を塗って完成させなければなりません。
冬場の土いじりは土が冷たくて、手が痺れます。
ここには湯沸かし器がないので、大ぶりなホーローの洗面器にたっぷりお湯を沸かして柄杓で汲んで手を洗います。湯気が加湿器の代りにもあるわけです。
冬場は空気が乾燥しているからといって夏場に比べると作ったものの乾燥は遅いような気がします。画像は型から抜いたものの側面のバリを取ったところで、まだ底面のバリは取っていません。そのあと尻尾を貼りつけます。
特定な店舗名がないので、お菓子屋さん全般で使われていた既製品の包装紙だったのかもしれません。「お菓子の○○屋」とか「○○商店」とかで使われていたのでしょうか?
「Best Cake & sweet Candies」 「Bread&Cake」 「パンと生菓子」「和洋菓子」「Thank youVery much」 「各種 ご進物調整」なんてあります。手描きのイラストには「Meijiチョコレート」「新高ドロップ」「森永ミルクキャラメル」「チューンガム」「特製 長崎カステラ」「別製 最中」などいろいろあります。
よくわからないのは「甘納豆」と一緒に描かれている「ピーナット」というもの。「ピーナッツ」を書き損じたのか「ピーナッツの甘納豆」のようなものなのか??? そういうお菓子ってあるのでしょうか?あったら食べてみたいです。
それにしても何とも幸せそうな包装紙。暖かな木琴のメロディーが聞こえてくるような、、。 お菓子の品質など現在のほうが格段にいいのに決まっているとは思いますが、当時のほうが何故かおいしかったような気もしますし、世の中幸せだったように思います。「悲しいときは甘い物を食べるとよい。」とか「甘い物を食べると幸せになる。」という言葉があるように思いますが、、、。
今日まで三賀日なので、人形でお正月にふさわしい題材のものをとりあげてみたいと思いました。
今戸の土人形としては「獅子頭」や「角兵衛」「亀抱き」「羽子板持ち」などもお正月にふさわしいかと思うのですが、奥にしまい込んでしまっているので、すぐに出せるこの人形にしました。
高さ7センチくらいの小さなもので、際物的性格の強いもののように思います。
おそらく板の台座に貼りつけてあったか、経木でできた箱に貼りつけてあったか、或いは旧式の東京の破魔弓のパーツであったか、そういうものではないかと思っています。
高砂の人形は全国の土人形の産地にいろいろと分布していたように思いますが、題材としてそんなに面白い造形、描彩のものは少ないのではないでしょうか?この人形もその例に洩れす、地味な感じがします。しかし小さい割には塗り分けや描き込みの手が混んだものではないかと思います。
今戸人形の場合、素焼きの木地を作る家と絵付けする家では必ずしも同じではなく、間に問屋などが入って分業体制に仕上げられたということも少なくなかったようで、内職で絵付けをするのは、落語「骨の賽」(今戸の狐)の中にも出てきます。この人形もそういう背景の中で作られたと想像することもできるかと思います。
初夢というのは、元旦の夜から2日の朝にかけてみるのが本当のようです。よい初夢をご覧になられたでしょうか?
私は元旦の夜には、夢を何もみなかったのです。しかし昨夜、つまり2日から3日の朝にかけて夢をみました。今年はじめてみた夢だから、これも初夢かと勝手に思っています。
私は睡眠障害があって通院している体なので、日頃夢をみても、シュールな(夢ってそういうものなのでしょうが)あまり心地よくない内容のものが多いのですが、昨夜の夢は不思議ではあるけれど、決して不快なものではありませんでした。
夢の内容を人に話すとよくないのかどうか知りませんが、、、
場所はどこか大学の講義室のようなところ、、前方に緑色の黒板のようなものが見えました。いかにも講義用といった階段状に並んだ造りつけのテーブルと椅子があって自分も席についています。周りにはリクルート姿や紺のブレザーにネクタイ姿のお兄さんやお姉さんがたくさん座っている。2~3列前の左手の席に猫さんが座っている。その猫さんが振り返ったら、見覚えのあるぶち、、、十五夜さんのようでした。
場面が変わって、夜の住宅地の道を大勢のリクルート風やIV風の人達が歩いていて、その中に自分も歩いている。人混みの中から十五夜さんも同じ方向に歩いているのが見える。
どこかの何もない夜の広場のようなところにたくさんの丸椅子が巨大な輪に並んでいて椅子取りゲームをやっている。参加しているのはみんなリクルート風やトラッド風な人たち。十五夜さんも歩いていて、私の座った椅子のとなりの椅子に飛び乗って座った。腰や尻尾の模様が十五夜さんなのです。そして私と十五夜さんとで何か話している。言葉は思い出せないのですが、十五夜さんはみゃーでなかったような、、、。
その辺りまで憶えているのですが、親の朝食を作れという合図のブザーで起されてしまいました。
夢に十五夜さんが登場したのは、これが初めてだと思います。出来すぎた話のようですが、本当にみた夢です。これは一体何の兆しなのでしょうか、、、、、、?