島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

馬場紀伊入道板碑

2011-05-18 14:38:53 | 歴史・史跡
いろんなお地蔵さんと出会いながら街歩きを楽しんでいると、「馬場紀伊入道板碑」なるものに出くわした。
「板碑」と書かれているからには、真ん中の板状の石碑のことだろうと思う。
さて、これはいかなるもの?

読めません。
ネット検索で、今の状況よりもまだ読めそうな写真があったので、後世に繋げる意味でも記しておく。
「馬場紀伊入道板碑
所在地 有家町中須川名堤二九番地
 古くから「山の神」として奉祀され、別名「法華経供養塔」と呼ばれる室町期の定形的板碑である。
 上部破損のため年号欠落、建立年の決定に疑問が持たれるが、有家町文化財保護審議委員会では、拓本等の資料検討の結果、明応二年(一四九三年)説をとっている。
(碑文が記載されているのですが、漢字が羅列されているので中略)
 干支(かんし)年号癸(みずのと?)丑年の二年に該当する年号は文中二年(一三七三年)と明応二年(一四九三年)があるが、碑文の願旨並びに時代的背景から見て「明応」が合致しているが、決め手は拓本に應の字の心の部分「し」が確認されたことである。
 因(ちな)みに明応二年は有馬氏の勢力拡張の時代で、翌明応三年には島原半島内の諸豪族を支配し、藤津郡・彼杵郡を掌中におさめ、明応五年には原城を築き戦国大名としての地位を確立した。まさに有馬氏全盛時代への夜明けを迎えていた。
 紀伊入道が如何なる人物であったかは不明、藩政時代の大庄屋(町村庄屋)馬場源之丞は有馬四天王(馬場・林田・鬼塚・峰)の一人、馬場氏の後裔であり、此処二九番地は町村庄屋の屋敷内である。
 有家町教育委員会」
有家町時代に史跡に指定されたのであろう歴史物は、市町村合併で漏れてしまったのだろうか。
せっかくの解説板は消えかかり、南島原市のホームページにも見つかりませんでした。
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