雲仙市立南串第一小学校を過ぎるとすぐ目の前に見えた。
なにやら解説板があるが、あれがキリシタン墓碑か。
長崎県の指定文化財「南串山町のキリシタン墓碑(3基)」だ。
『この墓碑は、慶長の頃(1606~1612年)、あるキリシタンを祀ったものである。
はじめ、池崎地区の畑の中にあったものを、いつの頃か定かではないが、昭和の初め竹下義巳氏家庭の池のほとりに移されたものという。
墓碑は三基あり、それは支石形に組まれ、上の一基は平庵型で長さ130cm・高さ24cm・幅57cmあり正面軸面に「里阿(りあ)ん」、右側面に「慶長十一年」、左側面に「九月三日」と刻んである支石となっている。
二基のひとつに「慶長十七年六月二十七日」、他のひとつの側面に「慶長十一年」と刻んであるが、これが貴重な文化財であることから昭和二年十一月八日、長崎県文化財(24)に指定された。
以来、風化を案じて今日に至り、ここに県の協力をうけ現在地に移転安置したものである。
一九七八年九月二十日 南串山町教育委員会』
文化財に指定された年も古いですし、南串山町が雲仙市に合併する前の物だ。
古びて字は薄くなっていますが、文字ははっきりと読める解説板でした。
キリシタン墓碑から登る事少し。
T字路に突き当たりました。
案内板は右を指しています。
なにやら解説板があるが、あれがキリシタン墓碑か。
長崎県の指定文化財「南串山町のキリシタン墓碑(3基)」だ。
『この墓碑は、慶長の頃(1606~1612年)、あるキリシタンを祀ったものである。
はじめ、池崎地区の畑の中にあったものを、いつの頃か定かではないが、昭和の初め竹下義巳氏家庭の池のほとりに移されたものという。
墓碑は三基あり、それは支石形に組まれ、上の一基は平庵型で長さ130cm・高さ24cm・幅57cmあり正面軸面に「里阿(りあ)ん」、右側面に「慶長十一年」、左側面に「九月三日」と刻んである支石となっている。
二基のひとつに「慶長十七年六月二十七日」、他のひとつの側面に「慶長十一年」と刻んであるが、これが貴重な文化財であることから昭和二年十一月八日、長崎県文化財(24)に指定された。
以来、風化を案じて今日に至り、ここに県の協力をうけ現在地に移転安置したものである。
一九七八年九月二十日 南串山町教育委員会』
文化財に指定された年も古いですし、南串山町が雲仙市に合併する前の物だ。
古びて字は薄くなっていますが、文字ははっきりと読める解説板でした。
キリシタン墓碑から登る事少し。
T字路に突き当たりました。
案内板は右を指しています。