島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

琴の尾岳烽火台跡(県指定史跡)

2018-12-11 11:09:03 | 歴史・史跡
琴の尾岳山頂、琴の尾神社や琴の尾岳公園から少し下った所に「琴の尾岳烽火台跡(県指定史跡)」はあります。
「島原の乱」後、キリシタン勢力の巨大なることを知った幕府は、鎖国体制を強めるとともに異国船の動向に警戒を強化しました。
江戸時代に外港として機能した長崎港における外国船侵入などの異変を伝達する施設として、長崎奉行に命じて烽火台を設置させました。
長崎村の斧山(現 長崎市鳴滝町烽火山)に狼火山番所と野母村の権現山に野母遠見番所がそれです。
遠見番所は、異国船の船影を見つけると「※白帆注進(しらほちゅうしん)」によって、早く長崎奉行所に知らせ、一方、長崎の狼火山番所は、異国船来航の知らせの狼煙をあげ、大村領に所属する琴の尾岳烽火台と諫早領の多良岳狼煙場とに知らせ、長崎警備の体制を取らせる事にした。
(※白帆注進;通行人や船舶の不法行為を見張る施設で、とくに江戸時代の関所・番所・港湾等の付属機関となっていた。長崎港外に設けられた遠見番所は、事前に唐船の入津を探知するためのもので、これを白帆注進といった。)
この烽火台の構造と大きさは、一辺約9.5mの方形の基壇の上に直径約3.5mの円形の竃跡があり、その周りを高さ70cm、直径7mくらいの土止めの石垣がめぐらしてあります。また、焚き口が東・西・北の三カ所に作ってあります。
構築はもっぱら安山岩の石材によるが、かなり散在して、竃跡も土砂が堆積している状態でした。

この狼煙は、平戸藩にも報知する目的があったとしています。
文化五年(1808年)イギリス船フェートン号が不法に長崎に入港してきて、オランダ商館員を捕らえ、そして長崎奉行所には、薪水・食料などを要求し、それを獲得して退去するという事件がありました。(フェートン号事件)
長崎奉行の松平康英は責任を取って切腹しています。
このイギリス船の暴挙は、ヨーロッパでの国際戦争の流れの一環でした。
当時、オランダはフランス帝国のナポレオン皇帝の支配下にあって、有名無実化していました。
これを機に幕府は海防を強化し、再編成をしなければならず、それでこの狼煙場は、十分に対応出来なかったことで廃止されました。
記録では、正保四年(1647年)ポルトガルの軍艦二隻が長崎にやってきた時と、フェートン号事件の時の二回「狼煙」を上げたとされますが、調査によると「狼煙」を上げた炭のあとは、薄く一層しか出て来なかったそうです。
琴の尾岳にはもう一カ所烽火台があるそうだが、そちらはどのような目的で設置されたものか分からず、県から史跡に指定されているのはこちらだけです。
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