築城についての詳しい記録は残っていません。
安富頼清が深江浦地頭職として文永2年(1265年)に鎌倉幕府の命令を受けて下向し、天正12年(1584年)退城するまでの319年の戦国期に、構築・整備された安富氏代々の居城です。
安富氏は、元寇の役で奮戦したり、足利尊氏に軍忠状を貰うなどの活躍をした源氏の武将でした。
有馬氏一門に加わっていましたが、天正11年(1583年)有馬氏が佐賀の龍造寺氏に謀反した際、離反し龍造寺方につきました。
安富氏が佐賀方に加担したので、有馬・島津連合軍の猛攻を受けましたが、ろう城して撃退した堅固な城です。
しかし、翌年の「沖田畷の戦い」で龍造寺軍は敗北、安富氏は一族郎党を引き連れて佐賀へ移り、やがて廃城となりました。
現在は写真の石碑と根石だけが城址を示しています。
写真が少し赤っぽいのは、朝焼けの影響です。(朝早かったものだからw)
安富頼清が深江浦地頭職として文永2年(1265年)に鎌倉幕府の命令を受けて下向し、天正12年(1584年)退城するまでの319年の戦国期に、構築・整備された安富氏代々の居城です。
安富氏は、元寇の役で奮戦したり、足利尊氏に軍忠状を貰うなどの活躍をした源氏の武将でした。
有馬氏一門に加わっていましたが、天正11年(1583年)有馬氏が佐賀の龍造寺氏に謀反した際、離反し龍造寺方につきました。
安富氏が佐賀方に加担したので、有馬・島津連合軍の猛攻を受けましたが、ろう城して撃退した堅固な城です。
しかし、翌年の「沖田畷の戦い」で龍造寺軍は敗北、安富氏は一族郎党を引き連れて佐賀へ移り、やがて廃城となりました。
現在は写真の石碑と根石だけが城址を示しています。
写真が少し赤っぽいのは、朝焼けの影響です。(朝早かったものだからw)