寛政4年(旧暦)四月朔日酉の刻、手ごわき地震二つあり、即時東の海中鳴動し百千の雷の如く鳴り響く。
西暦1792年5月21日18時過ぎ頃、強震2回が生じて眉山が大崩壊を起こしました。
当時の古記録から地震の規模はマグニチュード6~7、震度5~6と推算されています。
その地震により、約4億立方メートル(東京ドーム約350個分)の土砂が崩壊し、島原市内に雪崩れ込んだと考えられています。
崩壊した土砂は麓の集落を埋没させたのみならず、有明海にまで突入し津波を引き起こしました。
津波は対岸の熊本を襲い、また反射波となって島原半島の東半分に返ってきました。
この大崩壊と津波で、島原で約9000人、熊本で約6000人、合わせて1万5000人もの人が亡くなりました。
この一連の大災害を指して「島原大変肥後迷惑」と言います。(肥後は当時の熊本のこと)
その崩壊面も現在では緑に覆われ、その爪痕を隠そうとしています。
西暦1792年5月21日18時過ぎ頃、強震2回が生じて眉山が大崩壊を起こしました。
当時の古記録から地震の規模はマグニチュード6~7、震度5~6と推算されています。
その地震により、約4億立方メートル(東京ドーム約350個分)の土砂が崩壊し、島原市内に雪崩れ込んだと考えられています。
崩壊した土砂は麓の集落を埋没させたのみならず、有明海にまで突入し津波を引き起こしました。
津波は対岸の熊本を襲い、また反射波となって島原半島の東半分に返ってきました。
この大崩壊と津波で、島原で約9000人、熊本で約6000人、合わせて1万5000人もの人が亡くなりました。
この一連の大災害を指して「島原大変肥後迷惑」と言います。(肥後は当時の熊本のこと)
その崩壊面も現在では緑に覆われ、その爪痕を隠そうとしています。