う~む、歴史に詳しい方に尋ねないといけないな。
岩戸山の入口の案内には、「観世音の御尊体は僧行基の作であったと伝えられています。このいわれ古い観音堂は、キリシタン騒動のため壊滅してしまいましたが、寛文11年(1671年)肥後国宇土の妙覚禅尼によって復興されました。」(平成6年9月 加津佐町)と書かれています。
しかし、加津佐の公民館で入手した資料には、「寛文11年(1671年)領主松平忠房の時、観音堂は建立された。後、宝暦4年(1754年)領主戸田忠寛の時に改築せられ、更に弘化元年(1844年)松平忠誠の時、第三回の改築が見られる。観音堂の内部は、右正面の厨子に十一面様、年に一回、4月18日に御開帳になる。左正面の仏像は如意輪観世音と聞く。」(加津佐ふるさと史跡めぐり 平成14年3月発行)とあります。
寛文11年は共通していますが、復興なのか、建立なのか?
キリシタン騒動の時に、岩戸山にある穴観音に仏教徒、あるいはキリシタンが逃げ込んだという話を聞くので、歴史の古い前者のような気もしますが・・・。
歴史家ではない私には窺い知れない、何か裏の側面があるのかも知れません。(あるいは意見が分かれているのか?)
どちらにしろ観音堂は、平成13年10月4日夕刻に突然出火・全焼し、今現在はその跡を遺すのみとなっています。
岩戸山の入口の案内には、「観世音の御尊体は僧行基の作であったと伝えられています。このいわれ古い観音堂は、キリシタン騒動のため壊滅してしまいましたが、寛文11年(1671年)肥後国宇土の妙覚禅尼によって復興されました。」(平成6年9月 加津佐町)と書かれています。
しかし、加津佐の公民館で入手した資料には、「寛文11年(1671年)領主松平忠房の時、観音堂は建立された。後、宝暦4年(1754年)領主戸田忠寛の時に改築せられ、更に弘化元年(1844年)松平忠誠の時、第三回の改築が見られる。観音堂の内部は、右正面の厨子に十一面様、年に一回、4月18日に御開帳になる。左正面の仏像は如意輪観世音と聞く。」(加津佐ふるさと史跡めぐり 平成14年3月発行)とあります。
寛文11年は共通していますが、復興なのか、建立なのか?
キリシタン騒動の時に、岩戸山にある穴観音に仏教徒、あるいはキリシタンが逃げ込んだという話を聞くので、歴史の古い前者のような気もしますが・・・。
歴史家ではない私には窺い知れない、何か裏の側面があるのかも知れません。(あるいは意見が分かれているのか?)
どちらにしろ観音堂は、平成13年10月4日夕刻に突然出火・全焼し、今現在はその跡を遺すのみとなっています。