国見ヶ丘の中央には小高い丘があります。
丘の上には大きな像が設置されているのが見えます。(表紙写真)
丘の周囲を一周できる歩道が整備されていますが、中央の丘にも登る事は出来ます。
像の足元にも文章が記されているのですが、ちょっと読み取り難かったので、別の場所にあった他の解説板を記します。
「遠い神代の昔、この地上界があまりにも乱れていましたので高天原のアマテラスオオミカミは大変ご心配になりました。そこでアマテラスオオミカミは孫にあたるニニギノミコトに地上界へ降りて国を治めるように命じました。
多くの神々を従え、高天原を出発したニニギノミコトは日向の高千穂の二上峯(ふたがみのたけ)に到着されました。しかし、霧が深く夜や昼の区別もつかず、道も分からず、物の色もよく分かりません。
その時、この地に住むオオクワ・オクワ(漢字が分かりません)という二人が現れて『ミコトが手に持たれている稲千穂を籾(もみ)にして、あたり一面にまかれるとこの霧は必ず晴れるでしょう』と進言しました。
ミコトがその通りにすると、霧が晴れ地上界に無事おりることが出来ました。それでこの地は智鋪(ちほ・高千穂)といわれるようになりました。
この神話は日向風土記に書かれていた物語です。風土記は七一三年、元明天皇の命により、諸国の国司(現在の県知事)が産物、地名の由来、伝承等を書いて提出した地誌です。日向風土記は現在残っていませんが、万葉集注釈(一二六九年)釈日本紀(一二七四年)という書物に引用されており、これを風土記逸文と呼んでいます。
尚、古事記(七一二年)には天孫降臨の神山として高千穂のクシフルタケ、日本書紀(七二〇年)には襲(そ)のタカチホノタケ、クシフルノタケ、フタガミノタケ、セフリヤマタケ(祖母山)が記されています。」高千穂町
丘を降りてぐるりと一周してみます。
「正面向こうに見える山並みは阿蘇山です。
お釈迦様が横たわった姿に似ていることから、別名『阿蘇の涅槃像』と呼ばれています。
右が顔で根子岳、体が高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳と続き、阿蘇五岳と呼ばれています。
ここ国見ヶ丘は、涅槃像、雲海とともに神々しい山々が見渡せる絶好の展望ポイントとなっています。」
ああ〜なるほど、仰向けに寝ているように見える。
と、その時!
背後に人影を感じ、さっと振り向くと!!
なんだ、さっきの像じゃないか・・・。w
丘の上には大きな像が設置されているのが見えます。(表紙写真)
丘の周囲を一周できる歩道が整備されていますが、中央の丘にも登る事は出来ます。
像の足元にも文章が記されているのですが、ちょっと読み取り難かったので、別の場所にあった他の解説板を記します。
「遠い神代の昔、この地上界があまりにも乱れていましたので高天原のアマテラスオオミカミは大変ご心配になりました。そこでアマテラスオオミカミは孫にあたるニニギノミコトに地上界へ降りて国を治めるように命じました。
多くの神々を従え、高天原を出発したニニギノミコトは日向の高千穂の二上峯(ふたがみのたけ)に到着されました。しかし、霧が深く夜や昼の区別もつかず、道も分からず、物の色もよく分かりません。
その時、この地に住むオオクワ・オクワ(漢字が分かりません)という二人が現れて『ミコトが手に持たれている稲千穂を籾(もみ)にして、あたり一面にまかれるとこの霧は必ず晴れるでしょう』と進言しました。
ミコトがその通りにすると、霧が晴れ地上界に無事おりることが出来ました。それでこの地は智鋪(ちほ・高千穂)といわれるようになりました。
この神話は日向風土記に書かれていた物語です。風土記は七一三年、元明天皇の命により、諸国の国司(現在の県知事)が産物、地名の由来、伝承等を書いて提出した地誌です。日向風土記は現在残っていませんが、万葉集注釈(一二六九年)釈日本紀(一二七四年)という書物に引用されており、これを風土記逸文と呼んでいます。
尚、古事記(七一二年)には天孫降臨の神山として高千穂のクシフルタケ、日本書紀(七二〇年)には襲(そ)のタカチホノタケ、クシフルノタケ、フタガミノタケ、セフリヤマタケ(祖母山)が記されています。」高千穂町
丘を降りてぐるりと一周してみます。
「正面向こうに見える山並みは阿蘇山です。
お釈迦様が横たわった姿に似ていることから、別名『阿蘇の涅槃像』と呼ばれています。
右が顔で根子岳、体が高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳と続き、阿蘇五岳と呼ばれています。
ここ国見ヶ丘は、涅槃像、雲海とともに神々しい山々が見渡せる絶好の展望ポイントとなっています。」
ああ〜なるほど、仰向けに寝ているように見える。
と、その時!
背後に人影を感じ、さっと振り向くと!!
なんだ、さっきの像じゃないか・・・。w