遡ること2005年10月6日撮影です。
場所は島原半島から離れた、長崎市福田本町です。
お墓の名前を「琴爪の墓」もしくは「琴姫の墓」といいます。
解説板には「寛政4年(1792年)島原の眉山の爆発による大津波で島原の家老の娘が流されてきたのを漁師が拾い上げ庄屋に告げてここに埋葬した。その娘の指に琴の爪がはまっていたことから人呼んで『琴爪の墓』と呼ばれている。」と記載されています。
この場所を大学時代の友人に教えてもらい、取材に行ってきたのです。
よくよく調べるために近くのお寺の住職さんや地元の図書館に足を運びました。
「福田村郷里史-大村藩郷村記にみる生活- 林 純夫著」に少しだけ詳しく載っていました。
おおまかには看板のとおりなのですが、若干違っているようでした。
というのも、発見した日を「安政3年5月11日」と墓の側面に掘っています。
安政3年は西暦になおすと1856年です。
島原大変が起こった年からは64年もの年月の差があります。
そんな長い時間海に流されていて死体が腐らないハズはありません。
娘がお姫さまのような綺麗な着物を着ていたために勘違いしたものと思われます。
実際、島原から長崎市に流れるには潮の流れなどを考えると相当な無理があります。(半島をぐるっと回らなければなりません。)
多少の間違いはあったにせよ、江戸時代に起こった島原大変が半島内だけでなく、当時は遠く隔たった場所である長崎にまで影響を及ぼしていることに驚きました。
場所は島原半島から離れた、長崎市福田本町です。
お墓の名前を「琴爪の墓」もしくは「琴姫の墓」といいます。
解説板には「寛政4年(1792年)島原の眉山の爆発による大津波で島原の家老の娘が流されてきたのを漁師が拾い上げ庄屋に告げてここに埋葬した。その娘の指に琴の爪がはまっていたことから人呼んで『琴爪の墓』と呼ばれている。」と記載されています。
この場所を大学時代の友人に教えてもらい、取材に行ってきたのです。
よくよく調べるために近くのお寺の住職さんや地元の図書館に足を運びました。
「福田村郷里史-大村藩郷村記にみる生活- 林 純夫著」に少しだけ詳しく載っていました。
おおまかには看板のとおりなのですが、若干違っているようでした。
というのも、発見した日を「安政3年5月11日」と墓の側面に掘っています。
安政3年は西暦になおすと1856年です。
島原大変が起こった年からは64年もの年月の差があります。
そんな長い時間海に流されていて死体が腐らないハズはありません。
娘がお姫さまのような綺麗な着物を着ていたために勘違いしたものと思われます。
実際、島原から長崎市に流れるには潮の流れなどを考えると相当な無理があります。(半島をぐるっと回らなければなりません。)
多少の間違いはあったにせよ、江戸時代に起こった島原大変が半島内だけでなく、当時は遠く隔たった場所である長崎にまで影響を及ぼしていることに驚きました。