事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

「殺しのリスト」ローレンス・ブロック著 二見文庫刊

2008-01-04 | ミステリ

Hitlist 殺しの依頼を受けたケラーは空港に降り立った。迎えの男が用意していたのは車とピストル、そして標的の家族写真だった。いつものように街のモーテルに部屋をとり相手の動向を探る。しかし、なにか気に入らない。いやな予感をおぼえながらも"仕事"を終えた翌朝、ケラーは奇妙な殺人事件に遭遇する…。

 ローレンス・ブロックはわたしの期待の星だ。P.D.ジェイムズを完読してしまい、ロス・トーマスはすでに亡く、ドン・ウィンズロウがめったに出ない現状を考えると、お気に入りの作家の中で、死ぬまでに読み切れないほどの著作があるのは彼だけ。

 ブロックには、著名なシリーズだけでも三つある。(元)アル中探偵マット・スカダーもの、軽妙きわまりない泥棒バーニイ・ローデンバーもの。そして殺し屋ジョン・ケラーの一連の作品。マット・スカダーについては傑作ぞろいなのでいずれ特集するとして、今回はこの寡黙な殺し屋を。

 このシリーズ、気の利いた短篇としてPLAYBOYをはじめとした雑誌に掲載されることが多い。でも「殺しのリスト」は珍しく長篇。ところがその一部はすでに独立した短篇として発表されたりしている。つまり、長篇としての体裁(商売敵としてのもう一人の殺し屋とのバトル)はとるものの、内容はエピソード集に近い。

Laurenceblock  ケラー(もちろんKillerのもじり)の性格はひたすら変わっている。というか、彼の内面はまったく語られないのだが、内に秘めた復讐の念とか熱情のために殺し屋をやっているわけでもなく、ましてや組織に対する忠誠などカケラもない。ただ単に“職業としてたまたま”殺し屋をやっている感じ。

 だいたいこの組織、ほとんど家内制手工業の世界(笑)で、先代の元締めがボケてしまったものだから秘書だったドット(ミュージカル「ライオン・キング」をブロードウェイに観に行ったりするおばさんである)とケラーがしょうがなくあとを継いでいる。ま、代替わりはこの業界らしく先代はケラーに“始末”されているのだが。

 たまたまやっている殺し屋だから別に金にたいする執着があるわけでもなく、報酬でとりあえず切手の収集なんかやっている。この切手趣味にしても「何か趣味を持っていた方がいいかも」程度のこと。語られない内面のなかで、しかし殺人者であることのストレスを雲散させるために、ケラーは生活者としてさまざまな試行錯誤を行っている。このあたりが読ませどころかな。デューク東郷みたいなマシーンにはなりきれない殺し屋。

 殺人方法や凶器はなりゆきまかせ。臨機応変。そしてその方が安全だと職業人としてのケラーの“勘”が教えている。殺人の場面が具体的に描かれることは稀だけれど、うっすらと読者にわかるように書いてあって、このへんはブロックの名人芸だ。
 そしてこのシリーズの最大の売りは、依頼を仲介するドットとケラーの会話。

「表面的な関係なんだよ」とケラーは説明した。

「ケラー、ほかにどんな関係があるの?」

「つまり」と彼は言った。「そういうつき合いが彼女の望みでね。都合がつけば、週に一度会って、ベッドへ行くだけの仲だ」

「その前にとりあえず食事くらいはするんでしょ?」

「食事に誘うのはもうあきらめた。彼女は体が小さくてね。ものをあまり食べないんだ。もしかしたら、彼女にとっては食べることだけがただひたすらプライヴェートなことなのかもしれない」

「セックスもそういうものだって思ってる人がどれほど大勢いるか知ったら、あなた、きっと驚くと思う」とドットは言った。

……若い頃のタモリ田村正和(えらい違い)と、もっと年とった桃井かおりの会話だと思っていただければ(笑)。アダルトマガジンのユーモアの粋を集めた感じ。まるでコント集。これが延々と続くのだ。わたし好みである。ああ早く次回作が出ないかな。そしてその期待をアッサリとかなえてくれそうなところが、多作家ローレンス・ブロックが、わたしの期待の星である所以なのだ。

「殺しのパレード」Hit Parade特集はこちら

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「神学校の死」P.D.ジェイムズ著ハヤカワ・ミステリ

2008-01-04 | ミステリ

Deathholyorders サフォーク州の人里離れた海岸に位置する聖アンセルムズ神学校は、その存続が危ぶまれている。長い年月のあいだに海岸が浸食され、いつまで建物が残っているのかわからないということ、20人の選ばれた神学生だけが学ぶという学校方針は今時では贅沢すぎて反感を買ってしまうこと、所蔵の価値ある美術品の数々は、このような僻地に置かず、もっと人目に触れる場所に移すべきであるということ、その他諸々の理由で教会は廃校を考えざるを得なかった。しかし、校長のセバスティアン・モレル神父をはじめとする神父、職員たちは抵抗を示し、少なくともあと、二、三年はこのまま持ちこたえるのではないかと思われた。この学校にロンドンの警視長アダム・ダルグリッシュが出向くことになったのは、神学生の一人ロナルド・トリーヴィスが海岸で謎の死を遂げ、事故死ということで処理されたことに端を発している。裕福で権力のあるロナルドの父親は死因の調査を依頼し、管轄外ではあったが、少年時代の幾度かの夏、聖アンセルムズ神学校で過ごしたことのあるダルグリッシュに白羽の矢が立てられたのだ。懐かしい思い出が胸によみがえるダルグリッシュだったが、待ち受けていたのは第二、第三と続く死だった。

ダルグリッシュ警視をご存知だろうか。日本の場合、彼が活躍するシリーズからスピンオフした女探偵コーデリア・グレイ(「女には向かない職業」)の方が有名だけれど、齢八十を超したこのミステリの女王(しかし先代であるクリスティのことは、今作で「一緒にしないでよ」とばかりに皮肉っている)の本領は、間違いなくダルグリッシュの方にある。最高作は文句なく「死の味」。この最新作「神学校の死」を読み終えて、わたしはシリーズ全作を読み通したことになる。ある意味さみしい。

Author_pd_james それにしてもダルグリッシュの設定はすごい。新妻を、出産時に子どもと共に失い、以来独身。すごいハンサムで長身。スコットランドヤードに勤務して抜きんでた成果を上げながら、同時に詩人(!)としても著名……おいおいハーレクインかぁ?

しかしP.D.ジェイムズの静謐な筆致がこの設定を陳腐化から救っている。そして、神のごとき推理で事件を解決するたびに昇進し、現在は警視長にのぼりつめて、なんでコロンボはあんなに事件を解決しているのにいつまでも警部なのか、という矛盾を回避している。この辺はキチンとしているんだよな。

ミステリが、本場の英米では二流扱いであることはジョン・ダニングの号でお伝えしたが、P.D.ジェイムズはどうなんだろう。上質な英文学の王道を歩んでいるかに見える彼女のことだから、それなりの評価は与えられていてほしい。もっとも、その分かなりとっつきは悪い。このことは予告しておきます。ストーリーに起伏があるわけでもなく、トリックも「おいおいそれでおしまいかい」と突っ込みたくなるときもある。でも人間描写はすごい。こんなタイプの人間は、きっとこう考え、そしてこうやって犯罪に陥ってしまう……読者を否応なしに納得させるその手管には恐れ入る。

あ、そういえば昔イギリス人の女性ALTとどんなミステリが好きかという話をしていたとき、P.D.の名をあげると「おーほっほっほ。わたしはストラドフォードの書店でアルバイトをしていたとき、サイン会に来た彼女に会ったことがあるのよーっ!」と思いっきり自慢された。くそ。これだからわたしはイギリス人が嫌いだというのだ。

……日本における小説の売り上げの8割はミステリだという。長者番付のトップも作家部門は常にミステリ作家が占めている。極端な例えだが、そのミステリにしたって「宮部みゆきとそれ以外」という感じで寡占化は進んでいる。確かにミステリは面白いし、宮部みゆきは必ず素晴らしい時間を提供してくれる。でも、ここいらでちょっと別のミステリにも目を向けてほしい。違うタイプの、違う満足を与えてくれる作品だってあるはずだ。ま、それ以上にはずれもたーくさんあるんだが。てなわけで、怒濤のミステリ特集開始。いくぞー。

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「昭和が明るかった頃」関川夏央著 文藝春秋刊

2008-01-04 | 本と雑誌

Sekikawanatsuwo1 古山卓巳は俳優部の連中の刺すような視線を背に、撮影所に入った。セットでは伊佐山三郎カメラマンが声高にライティングの指示を出していた。その光のなかに裕次郎が笑いながら立っていた。伊佐山カメラマンが近づく古山卓巳に気づき、振り向いてカメラのファインダーをのぞいてみるようにといった。そして古山卓巳の耳元で「どうだい、阪妻の再来だよ」とささやいた。

 石原裕次郎、といえば1960年生まれのわたしにとっては、「太陽にほえろ」の七曲署の係長(なんとあの威厳で係長だったのか)。あるいは酒臭そうな息で歌う「ブランデーグラス」などの演歌のイメージだろうか。

 だから、彼が死んだときの大騒ぎには今ひとつピンとこないところがあったし、「西部警察」の製作中止がトップニュースになり、渡哲也が「石原裕次郎の名を汚さないように……」なんて発言をしていることには、石原プロの右翼体質以上の何かが感じられた。これは、裕次郎の鮮烈なデビューの現場をリアルタイムで知る世代が、今マスコミで“デスク”と呼ばれる重要な立場にいることが大きい。若い頃のデスク世代にとって、日活青春映画の裕次郎こそが、高度成長期の夢のシンボルだったのだ。

 浦山桐郎は、会社が示した吉永小百合と浜田光夫というキャスティングは気に入らなかった。吉永小百合には貧乏のにおいがしなかった。本人が貧乏を知っているといいはっても、それは山の手の貧乏にすぎないと浦山が思っていたことのほかに、彼は日活のスターシステムそのものに強い違和を感じていたのだった。

Yujiromie  同じ夢を吉永小百合も体現していた。「キューポラのある街」のけなげな少女への共感を、時代と共に抱き続けたホワイトカラーたちこそが“サユリスト”であり、以後、どんな映画に出演してもその映画が駄作に帰してしまう皮肉は、時代の夢で在りすぎた吉永の当然の帰結だった……

 「戦後の『坂の上の雲』」という。そらおそろしいキャッチコピーがついた、石原裕次郎と吉永小百合をめぐるルポにおける関川の断定の連続には、うなずける部分が多い。しかし、昭和三十年代を歴史に押し込めるために、彼はやはり少し無理をしている。史観の押しつけが過ぎる、というか。これは「正論」というゴリゴリの右翼雑誌に連載されたという事情や、北朝鮮ウォッチャーの先駆けである関川へ、近ごろわたしが距離を取り始めていることにもよるのかもしれないが。

 でも、五社協定(東宝、東映、松竹、大映、日活による俳優の囲い込み。これを破ると、要するにその俳優は徹底的に干されていく)に反発し、自らのプロダクションを立ち上げて、その存続のために石原がどれだけの辛酸をなめたかや、吉永には、後日「細雪」という傑作がある以上、素材としての魅力を読み誤った映画界の不幸に対する記述はあってしかるべきだった。

Yosinagasayuri  63年5月のはじめ、「伊豆の踊子」をロケ中の下田の宿に、西河克巳監督あての電話がかかってきた。相手は「新潮」の編集長だった。彼は少なからず恐縮した口調で、「川端さんがそちらへうかがいたいといっているのですが」といった。それはいつのことか、と西河が尋ねると、「実はもう下田へきているのです」と答えた。(略)先生が実際に歩かれたのはどの道でしょうと地図を示したが、川端は今度は見ようとさえしなかった。彼の視線は徹頭徹尾吉永小百合のみに向けられていた。

 難癖はつけたものの、少なくとも芸能裏面史としての面白さは抜群だ。実は身体が弱かった裕次郎とか、小百合を溺愛する吉永家の異常な実態とか、そして、とにかく徹底的に自動車の運転が下手だった赤木圭一郎とか……

彼らスターと、日活がふりまいた夢は、いまや団塊世代の心の中にのみ存在するのかもしれない。われわれはその夢の残り香を、知らないくせに、ただ懐かしく思う。

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あの頃ペニー・レインと

2008-01-04 | 洋画

Almostfros  どうしても観る気にならない映画ってないだろうか。封切りで二の足を踏み、ビデオになってもなかなか借りられず、借りてもそのまま返してしまう……「恋に落ちたシェイクスピア」がそうだったし、「ロード・トゥ・パーディション」が今のところそんな映画だ。この「あの頃ペニーレインと」もそんな感じだった。

観れば、いい映画であることは歴然である。70年代のロックが満載で、少年の成長物語で、おまけに監督はキャメロン・クロウ(「ザ・エージェント」「バニラ・スカイ」の監督、そして物書きの前歴をいかして「ワイルダーならどうする?」の著者)である。どう考えても私のストライクゾーンど真ん中。こんなもん観なきゃ嘘だ。嘘なんだけど、なぜかDVDをケースから出すことがなかった。
これはわたしの性格に由来する。

“たとえ好きで好きで好きで仕方のない”女と会うときでも、あるいは“その飲みが楽しみで楽しみで楽しみで”いるときでも、わたしはその場所へ向かうとき、ちょっと億劫になる。
変な理屈をつけるつもりはない。たとえば、楽しみにしているだけ失望へのおそれが……
とか、過剰な期待を戒めるための不随意運動だとか(笑)。

どんな人もそんなパターンなのかは知らないけれど、この映画はそんな好きな女や楽しみな飲みに近い感じか。でも、やっぱり好きな女とは会ってみるべきだし、楽しみな飲みでは吐くまで飲むべきだ。最高の映画だった。

ストーリーは、“飛び級”までするような秀才少年が(インテリのお母さんが余計なマネをしたわけね)、姉の影響でロックに目覚め、ローリングストーン誌の金で新進バンドのツアーにライターとして随行し、バンドとグルーピー、そして少年すべてが成長していくというお話。クロウの自伝でもある。

Cast2 まずこのお母さん役のフランシス・マクドーマンドが素晴らしい。「ファーゴ」の妊娠している保安官役も良かったが、ロックンロールがセックスとドラッグにまみれているという偏見に凝り固まりながら(それはある意味正解なのだが)、しかし息子をどこかで手放さなければならないことに薄々感づいている未亡人、こんな難役を軽々とこなしている。

そして、なにより音楽!
映画のようにキャメロン・クロウがロックライターだった関係で、彼のまわりにはロック関係者が多い。バンドの指導はなんと親友のピーター・フランプトンがやったようだし(エンド・タイトルで彼の名を見つけてびっくり。「フランプトン・カムズ・アライブ」のライナーはクロウが書いたとか)、何よりもクロウの奥さんはハートのナンシー・ウィルソンなのだそうだ。いやーこれも驚き。ちなみにこのハート、レッド・ツェッペリンをリスペクトするハードロックバンドなのだが、姉妹がツインボーカルをとっているのだけれど、わたしも演歌っぽい姉のアンより「These Dreams」のナンシーの方が好きざんす。趣味いいぞクロウ

演出もみごとだ。グルーピーたちに童貞を切られた少年が感ずる、静かな朝のとまどいなど、すべての男たちが覚えのある“あの感じ”が品良く描かれている。
そして、有名人とつきあうことでしかアイデンティティが保てないグルーピー、ペニーレイン(演ずるケイト・ハドソンはゴールディ・ホーンの娘)が哀しい。彼女の本名があかされるシーンと、空港での別れの哀切さは必見。サウンドトラックを買うようなつもりで、このDVD、買っちゃおうかな。

Stroyimg1 ※涙ちょちょ切れの曲目は以下のとおり。
"America" Simon & Garfunkel
"Sparks" The Who
"It Wouldn't Have Made Any Difference" Todd Rundgren
"I've Seen All Good People:Your Move" Yes
"Feel Flows" The Beach Boys
"Fever Dog" Stillwater
"Every Picture Tells A Story" Rod Stewart
"Mr. Farmer" The Seeds
"One Way Out" The Allman Brothers Band
"Simple Man" Lynyrd Skynyrd
"That's The Way" Led Zeppelin
"Tiny Dancer" Elton John
"Lucky Trumble" Nancy Wilson
"I'm Waiting For The Man" David Bowie
"The Wind" Cat Stevens
"Slip Away" Clarence Catter
"Something In The Air" Thunderclap Newman

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マイビッグファットウェディング

2008-01-04 | 洋画

Bigfatwedding1  うろたえた。
なんで今、オレはこんな普通の場面で涙を流してるんだ?と。

……原題はMy Big Fat Greek Wedding。わたしのすんげー大げさなギリシャ風結婚。強引に日本人にあてはめると、成城あたりのインテリがこてこての関西人に婿入りする顛末か。こちらは人種問題もからんでもっとハードだが。

 平日の午後、客席にはわずか4人。わたしの前には外人の若い女性が座り、んもう最初っから最後まで笑いっぱなしだった。彼女の下品な笑い方で思う。またしても強引に日本にあてはめると、この映画、肌合いとしては寅さんに近いのではないかと。予定調和なストーリー、ひねりのないギャグ、騒々しい登場人物たち……山田洋次の映画は日本映画を10年は後退させた、と常々広言してはばからないわたしだが、しかし予想どおりのハッピーエンドに涙しながら、こんな映画には近頃めったにお目にかかれないことに気づく。一目惚れした相手から目が離せなかったり、なかなかやらせてくれない女にいらだったり、いつも不機嫌な祖母(いまだにギリシャとトルコが交戦状態にあると思っているあたりが笑える)が、結婚を控えた孫娘に見せる笑顔……日本映画がすでに放棄した「普通の恋愛」を、ここまで堂々と描くか。

この、松竹製かと思えるようなコメディを、配給会社の戦略にのって若い女性たちだけのものにするのは惜しい。盆と正月に寅さんを待っていたような層こそ、全米で2億ドルも稼いだ原動力だったはず。その力を見抜いた製作のトム・ハンクス夫妻も鋭い。ぜひ観て。こんな機会でもなければ、ギリシャ正教の結婚式なんて一生見れないよ!

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