その6.
「なぜ聞かなきゃならない? そんないやな思いをしてまでなんだって聞いてるんだ?」
「もうやめて。お願いだからよして」アイリーンは泣いていた。「世間ってほんとうにひどい、あさましくて怖ろしいものなんだわ。でも、わたしたちはそんなふうじゃなかったわよね、あなた? そうでしょ? わたちたちはいつだって良い人間だった、ちゃんとしてたし、お互いを思いやってきたわよね? 子供だってふたりともかわいいわよね。うちの子は下品なんかじゃない、そうでしょ? ね?」夫の首に腕を回してしがみついて頬を寄せた。「わたしたち、幸せよね? 幸せでしょ? ね?」
「あたりまえじゃないか。ウチはうまくいってる」うんざりしたようにそう答えた。面倒くさいという思いが次第に耐え難くなってくる。「幸せに決まってるだろう。明日にはあの忌々しいラジオも修理に出すか、引き取らせるかするから」妻の柔らかな髪を撫でてやりながらつぶやいた。「バカだな」
「わたしのこと、愛してくれてるわね? それに、わたしたちはひどいことを言ったり、お金のことで気をもんだり、嘘ついたりしないわよね?」
「ああ、しない」とジムは答えた。
翌朝、修理の男性が来て、ラジオを直して帰った。おそるおそるつけてみたアイリーンは、カリフォルニア・ワインのコマーシャルにつづいて、ベートーヴェンの第九、シラーの『歓喜の歌』のレコードが流れてきたのでホッとした。そのまま一日中つけていてもスピーカーからはもう何も聞こえてこなかった。
スペイン組曲が流れているとき、ジムが帰ってきた。「もう悪いところはないな?」顔色が悪いようだわ、とアイリーンは思った。ふたりでカクテルを飲み、オペラ《イル・トロバトーレ》のなかの“アンヴィル・コーラス”を聴きながら夕食を取った。そのつぎは、ドビュッシーの《海》が聞こえてくる。
「ラジオの代金を今日払ってきた」ジムが言った。「四百ドルもかかったぞ。こうなったらせいぜい楽しんでくれなけりゃ」
「もちろんよ。わたし、そうするつもりよ」
「四百ドルっていうのは、ぼくからすれば不相応なぐらいの大金なんだ。君の喜ぶ顔が見たくて買ったんだからな。今年はもうこれ以上、贅沢する余裕はない。ところで君は、ドレスの請求書をまだ払ってなかったんだな。化粧台の上に何枚もあった」妻の顔を真正面に見据えた。「なんでもう払った、なんて言ったんだ? どうして嘘なんかつくんだ」
「心配させたくなかったから」そう言うと水を飲んだ。「今月分から払えばいいって思ってたのよ。先月はソファのカバーを新しくしたし、パーティもあったし」
「アイリーン、君はそろそろぼくが渡す金でもう少し賢くやりくりすることを覚えてくれなきゃな。今年は去年ほど余裕があるわけじゃないんだ。今日、ミッチェルと真剣に討議したんだ。購買意欲が落ちている。新製品のプロモーションにかかりっきりになってはいるんだが、そういうことの効果が現れてくるまでには時間がかかる。ぼくももう若くなることはできないんだ。もう三十七だ。来年には白髪になってるだろう。やろうと思ったこともろくすっぽできてないっていうのにな。おまけにこれから何か良くなるなんて見通しだってありゃしない」
「わかってるわ、あなた」
「切り詰めていかなきゃな。子供のことだって、考えなけりゃ。洗いざらい言ってしまうが、金のことは相当に厳しいんだ。これから先どうなるか、まったくわかったもんじゃない。だれだってそうだ。もしぼくに何かあったら、確かに保険はあるが、きょうび、そんなもんではとてもじゃないがやっていけない。こうやって必死になって働いているのも、君や子供たちに、ちゃんとした暮らしをさせてやりたいからなんだ」それからこう吐き捨てた。「まったく精魂傾けて、日々若さをすり減らして働いた結果が、そんなものに消えていくんだからな。毛皮のコートだろ、ラジオだろ、ソファ・カバーだろ、それからなんだ?」
「お願い、ジム。どうかやめてちょうだい。聞こえるわ」
「だれが聞くっていうんだ? エマには聞こえやしないさ」
「ラジオよ」
「勘弁してくれよ!」ジムは大きな声になった。「そのおどおどした顔を見ると、気分が悪くなる。ラジオが一体どうしたっていうんだ。だれも聞いてなんかいない。第一、聞いてたらどうだっていうんだ。かまやしない」
アイリーンは食卓を立ってリビングに移った。あとを追ったジムは、ドアのところで怒鳴り続けた。
「急に聖人づらか? 一夜明けたら尼さんか? 君のおふくろさんの遺言状の検認もまだすまないうちに、宝石を盗んだくせに。妹には1セントだってやりゃしなかったよな、あれは妹に行くはずの金もあったんじゃなかったのか? 彼女だって必要なときがあったのに。グレイス・ホーランドの生活を惨めなものにしたのは、君なんだぞ。信心深そうな善人づらをさげて、子供だって堕しに行ったよな。あんまりあっさりしてるんで、たまげたぜ。旅行鞄を用意して、ナッサウ山脈にでも行くような顔で、おなかの子を殺させに行ったんだからな。もう少し君が分別を働かせてくれたらな、まったく、どうしてもっと頭を働かせられないんだ?」
辱められ、嫌悪に身を震わせて、アイリーンは醜いキャビネットを前に立ちつくしていた。スイッチに手をかけてはいたが、音楽と話し声を消す前に、この機械がわたしに優しく話しかけてくれないかしら、あのスウィニーの乳母の声だけでも聞こえてこないかしら、と思った。ジムは相変わらず戸口でわめいている。ラジオからは、洗練され、我関せず、といった声が聞こえてくる。「今朝早く、東京で列車事故があり、29人が亡くなりました。バッファロー近郊のカトリック系病院付属の盲学校から出火しましたが、修道女らの働きで鎮火されました。現在の気温は摂氏8度、湿度89パーセントです」
(後日手を入れてサイトに一括掲載します。お楽しみに)
「なぜ聞かなきゃならない? そんないやな思いをしてまでなんだって聞いてるんだ?」
「もうやめて。お願いだからよして」アイリーンは泣いていた。「世間ってほんとうにひどい、あさましくて怖ろしいものなんだわ。でも、わたしたちはそんなふうじゃなかったわよね、あなた? そうでしょ? わたちたちはいつだって良い人間だった、ちゃんとしてたし、お互いを思いやってきたわよね? 子供だってふたりともかわいいわよね。うちの子は下品なんかじゃない、そうでしょ? ね?」夫の首に腕を回してしがみついて頬を寄せた。「わたしたち、幸せよね? 幸せでしょ? ね?」
「あたりまえじゃないか。ウチはうまくいってる」うんざりしたようにそう答えた。面倒くさいという思いが次第に耐え難くなってくる。「幸せに決まってるだろう。明日にはあの忌々しいラジオも修理に出すか、引き取らせるかするから」妻の柔らかな髪を撫でてやりながらつぶやいた。「バカだな」
「わたしのこと、愛してくれてるわね? それに、わたしたちはひどいことを言ったり、お金のことで気をもんだり、嘘ついたりしないわよね?」
「ああ、しない」とジムは答えた。
翌朝、修理の男性が来て、ラジオを直して帰った。おそるおそるつけてみたアイリーンは、カリフォルニア・ワインのコマーシャルにつづいて、ベートーヴェンの第九、シラーの『歓喜の歌』のレコードが流れてきたのでホッとした。そのまま一日中つけていてもスピーカーからはもう何も聞こえてこなかった。
スペイン組曲が流れているとき、ジムが帰ってきた。「もう悪いところはないな?」顔色が悪いようだわ、とアイリーンは思った。ふたりでカクテルを飲み、オペラ《イル・トロバトーレ》のなかの“アンヴィル・コーラス”を聴きながら夕食を取った。そのつぎは、ドビュッシーの《海》が聞こえてくる。
「ラジオの代金を今日払ってきた」ジムが言った。「四百ドルもかかったぞ。こうなったらせいぜい楽しんでくれなけりゃ」
「もちろんよ。わたし、そうするつもりよ」
「四百ドルっていうのは、ぼくからすれば不相応なぐらいの大金なんだ。君の喜ぶ顔が見たくて買ったんだからな。今年はもうこれ以上、贅沢する余裕はない。ところで君は、ドレスの請求書をまだ払ってなかったんだな。化粧台の上に何枚もあった」妻の顔を真正面に見据えた。「なんでもう払った、なんて言ったんだ? どうして嘘なんかつくんだ」
「心配させたくなかったから」そう言うと水を飲んだ。「今月分から払えばいいって思ってたのよ。先月はソファのカバーを新しくしたし、パーティもあったし」
「アイリーン、君はそろそろぼくが渡す金でもう少し賢くやりくりすることを覚えてくれなきゃな。今年は去年ほど余裕があるわけじゃないんだ。今日、ミッチェルと真剣に討議したんだ。購買意欲が落ちている。新製品のプロモーションにかかりっきりになってはいるんだが、そういうことの効果が現れてくるまでには時間がかかる。ぼくももう若くなることはできないんだ。もう三十七だ。来年には白髪になってるだろう。やろうと思ったこともろくすっぽできてないっていうのにな。おまけにこれから何か良くなるなんて見通しだってありゃしない」
「わかってるわ、あなた」
「切り詰めていかなきゃな。子供のことだって、考えなけりゃ。洗いざらい言ってしまうが、金のことは相当に厳しいんだ。これから先どうなるか、まったくわかったもんじゃない。だれだってそうだ。もしぼくに何かあったら、確かに保険はあるが、きょうび、そんなもんではとてもじゃないがやっていけない。こうやって必死になって働いているのも、君や子供たちに、ちゃんとした暮らしをさせてやりたいからなんだ」それからこう吐き捨てた。「まったく精魂傾けて、日々若さをすり減らして働いた結果が、そんなものに消えていくんだからな。毛皮のコートだろ、ラジオだろ、ソファ・カバーだろ、それからなんだ?」
「お願い、ジム。どうかやめてちょうだい。聞こえるわ」
「だれが聞くっていうんだ? エマには聞こえやしないさ」
「ラジオよ」
「勘弁してくれよ!」ジムは大きな声になった。「そのおどおどした顔を見ると、気分が悪くなる。ラジオが一体どうしたっていうんだ。だれも聞いてなんかいない。第一、聞いてたらどうだっていうんだ。かまやしない」
アイリーンは食卓を立ってリビングに移った。あとを追ったジムは、ドアのところで怒鳴り続けた。
「急に聖人づらか? 一夜明けたら尼さんか? 君のおふくろさんの遺言状の検認もまだすまないうちに、宝石を盗んだくせに。妹には1セントだってやりゃしなかったよな、あれは妹に行くはずの金もあったんじゃなかったのか? 彼女だって必要なときがあったのに。グレイス・ホーランドの生活を惨めなものにしたのは、君なんだぞ。信心深そうな善人づらをさげて、子供だって堕しに行ったよな。あんまりあっさりしてるんで、たまげたぜ。旅行鞄を用意して、ナッサウ山脈にでも行くような顔で、おなかの子を殺させに行ったんだからな。もう少し君が分別を働かせてくれたらな、まったく、どうしてもっと頭を働かせられないんだ?」
辱められ、嫌悪に身を震わせて、アイリーンは醜いキャビネットを前に立ちつくしていた。スイッチに手をかけてはいたが、音楽と話し声を消す前に、この機械がわたしに優しく話しかけてくれないかしら、あのスウィニーの乳母の声だけでも聞こえてこないかしら、と思った。ジムは相変わらず戸口でわめいている。ラジオからは、洗練され、我関せず、といった声が聞こえてくる。「今朝早く、東京で列車事故があり、29人が亡くなりました。バッファロー近郊のカトリック系病院付属の盲学校から出火しましたが、修道女らの働きで鎮火されました。現在の気温は摂氏8度、湿度89パーセントです」
The End
(後日手を入れてサイトに一括掲載します。お楽しみに)
「最終回」に投稿したつもりでしたg、
「その3」に間違えて投稿していました。
ごめんなさい。
もし、移動できるようなら、
最終回への移動をお願いしたいです。
ネタバレをしない程度に、
内容にふれているつもりですが、
これから読む方に、
予断を与えてしまう書き込みかもしれません。
こんばんは。
前回のお返事の、
「わたし」印の「本」の事、
楽しく読みました。
実は以前、インターネットに私がした書き込みも含めて、
書籍になった事があります。
普段、書籍を読む側の私の言葉が、
(ほんの数行の言葉でしたが・・・)
印刷された活字になった時、
とても嬉しかったのです。
・・・その時の嬉しさも思い出し・・・。
私が思った、なにげない事も、
また「別」の本を作っている、ようなもの、
と聞いて、
自分の持っていた、なにげない思いも、
まるで大事な大事な宝物のように思えてきました♪
「本」の話が出来る、って、いいですね。
そして・・・。
あ・あやしいラジオでしたね(汗)。
はじめは、「壜にメッセージをつめて、海に流す」
ぐらいのロマンティックなものを想像していました。
今まで焦点のあてられていない部分が
明らかになるにつれて、
登場人物に対する印象が変わっていく過程が、
鮮やかでしたね。
でも、その部分に無理を感じないので、
その「鮮やかさ」が、また痛快に思えました。
(私が)作品にしてやられた!という感じです。
次の作品も、楽しみにしています!
-----(※こちらに移動しました)----
わたしは小関智弘さんという町工場で旋盤工として働きながら、文筆活動をしていらっしゃる方の書かれたものが好きで(たとえばちくま文庫から『鉄を削る 町工場の技術』)、ときどき読むのですが、このなかに、このような一節があったのを、いまでもよく覚えています。
人間の髪の毛、って、太い、ごわごわの毛と、細い、なめらかでやわらかい毛って、手触りがもう全然ちがいますよね?
だけど、太い毛の直径は、だいたい9/100ミリ。
細い毛の直径は、7/100ミリぐらいなんだそうです。
実は、わたしたちって、この2/100の差を「全然ちがう」と感じている。
小関さんは、だから人間の手の感覚というのは、すごいのだ、すごいセンサーなのだ、という文脈で書いていたんですが、わたしはちょっとちがうふうに感じました。
失礼な言い方かもしれないんだけど、太った人って、顔が妙に似てる…。
あるいは、頭をツルツルに剃っていらっしゃる方って、妙に年齢がわからない…。
おじいさんだか、おばあさんだか、よくわからない人がいる…。
こんな経験はありませんか?
わたしはあるんですけど。
つまり、人間の外見の差って、実はほんのごくわずかなものなんじゃないだろうか。
だけど、その「ごくわずか」の差を見つけて、わたしたちはその人の性別や年齢や顔の違いを見分ける手がかりにしてるんです。
それと同じで、「性格の差」、あの人は優しい人だ、あの人は、頭がいい、あの人は何を考えてるかわからない……、っていうふうに、わたしたちは意識的・無意識的に人を分類して考えているわけですが、「優しい」と思っている人と「意地悪だ」と思っている人の差って、実はその髪の毛の差と同じくらいの差なんじゃないか、って。
アイリーンは、秘密を知って、みんなおぞましい、だけど、自分たちはちがう、って思いましたよね。
でも、最後に夫からそれを聞かされる。
自分でも無意識の領域にしまいこんでいた部分を明らかにされて、自分も同じだ、っていうことに気づかされる。
意地悪、優しい、善良、うそつき、賢い、馬鹿……。
性格をあらわすことばはいくつもあるけれど、わたしたちは、だれもが意地悪で、優しくて、善良で、うそつきで、賢くて、馬鹿なんじゃないでしょうか。
そうして、そのちがいというのは、2/100ぐらいで、だけどその差が決定的になる場面に出くわしてしまう…。
最初に読んだときに、なんというか、自分が「アイリーン」なんだな、「アイリーン」って、ほかでもない自分のことなんだな、と思った。
そのことが忘れられません。
書き込み、どうもありがとうございました。
また遊びに来てくださいね!
ところで、
>普段、書籍を読む側の私の言葉が、
>(ほんの数行の言葉でしたが・・・)
>印刷された活字になった時、
スゴイですね!
もし、差し支えないようでしたら、その本を教えてくださいね!