彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:坂下門外の変(1月15日)

2012年01月15日 | 何の日?
文久2年(1862)1月15日、江戸城坂下門外で老中首座の安藤信正が六人の水戸浪士に襲われて負傷しました。
俗に“坂下門外の変”と呼ばれる事件です。

2年前、桜田門外で井伊直弼を暗殺したのは水戸藩内の天狗党一派でした。この成功から天狗党内ではテロ行為によって自らの意見を押し通そうとする考え方が大きくなっていったのです。
安藤信正は、桜田門外の変の後に井伊政権をそのまま受け継いで、直弼が進めていた政治を継続させて行ったのでした。そのもっとも大きな事業は、孝明天皇の妹である和宮を将軍家茂の御台所として降嫁させる「公武合体」政策だったのです。

水戸を始めとする尊皇攘夷思想の人々は、井伊直弼が死ぬことで幕政改革が行われる筈だったのにTOPの名前が変わっただけで何も変わらない世の中に不信感すら感じるようになりました。
ましてや信正は、桜田門外の変の後に彦根藩下屋敷に監禁されていた彦根藩家老の岡本半介を呼び出して、井伊直弼の存命工作と息子の元服及び跡目相続の願いを提出させ、その手続きが終わった後に直弼の死を発表することで彦根藩を丸々安泰としたのでした。

「赤鬼(井伊)の手先」として信正を狙う計画を立てたのは水戸天狗党と宇都宮の儒学者・大橋訥庵一派、そして長州藩士で長州藩の窓口は桂小五郎だったのです。しかし決行前に長州藩では永井雅楽の台頭と小五郎を支援した周布政之助の失脚し、水戸藩士との企てから外れざるをえなくなったのでした。
こうした紆余曲折に中で天狗党と宇都宮一派は襲撃日を文久2年1月15日上元の嘉例の式日で大名が総登城となる日としたのです。

しかし、大橋の付き人が幕府に密告し、宇都宮一派の要人だった大橋や児島強介たちが1月12日に捕縛されてしまいます。


そして1月15日、五つ(午前8時ごろ)に上屋敷を出発した安藤信正が率いた平藩士の数は45名。事前に襲撃の情報が伝えられていたために駕籠の周りの警護は厳重でした。
行列が坂下門手前まで進んだ時、直訴の様にして行列の前に出た河本杜太郎(越後の医者の子)が行列の駕籠に向かって短筒を発射します。しかし弾は駕籠を反れて横の徒歩の足に当たったのです。
銃声を合図に天狗党の平山兵介・小田彦三郎・黒沢五郎・高畑総次郎そして宇都宮一派で医師の河野顕三が一斉に襲い掛かったのです。
桜田門外の変では、雪・弾の直弼命中・襲撃人数18名など襲撃側に幸運がありましたが、今回はそのような運にも恵まれませんでした。
それでも襲撃直後に一瞬混乱した行列の隙をついて平山兵介が駕籠を突き刺し安藤信正の背中に手傷を負わせたのです。信正は江戸城内に逃げ延びたのです。

襲撃者6名は全てその場で討ち取られ事件は終わったように思えたのですが、時間を間違えた天狗党の河辺佐治右衛門が、長州藩邸に逃げ込んで桂小五郎に後を託して自害したので、この日は7名の死者となったり、信正はしばらく傷の養生をすることとなったのです。
4月11日、幕政に復帰した信正に対し幕府内ではすでに反安藤派の勢力が出来上がっていて、薩摩藩主の後見役である島津久光らが坂下門外での責任を追及し信正は老中を罷免されたのです。

8月には、桜田門外の変での虚偽が問題となり平藩は2万石減封、信正は隠居謹慎。
彦根藩にも10万石減封、代々の役目であった京都守護罷免、藩主の井伊直憲は謹慎。
他に西尾藩や鯖江藩など井伊直弼に協力した藩は一斉に処罰を受けたのです。

こうして井伊直弼の政策は本当の意味で終焉を迎えたのでした。


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