彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『稲枝の麻と麻織物』

2009年01月11日 | 講演
2009年1月11日、彦根市南部の稲枝地区で昔から織られてきた麻織物の職人である大西實さんが『稲枝の麻と麻織物』というテーマで講演を行われました。
この講演会は“寺子屋 いなえ楽座”という稲枝青楽団が企画した150年祭の支援事業の二回目の講演です。

今回はこの内容から一部省略しお伝えします。


『稲枝の麻と麻織物』
近江上布伝統工芸士:大西實さん

今回は麻の仕事をさせていただいている現場の立場からのお話をさせていただきます。

『稲枝と麻』と言う題目ですが、私も戦後の生まれですので稲枝に麻が栽培されていたという麻畑の現状はわかりませんが子どもの頃に2mくらいの麻を船の底に沈めたという記憶が少しあるくらいです。そこから糸を取り出したという事もほとんど記憶にありません。
しかし田附・本庄辺りでは私の父親がお世話になってご家庭で近江上布を織っていただいていました。
子どもの頃にかすり糸をご家庭に運び行ったことは覚えています。
織って頂いている方も昭和30年代頃にはほとんど居られなくなりました。

取材でよく「近江上布とは何ですか?」「これぞ近江上布というのはどういう物ですか?」と訊かれますが、そうすると「う~ん?」と答えるしかありません。
“これぞ近江上布!”という物が無いのが近江上布の特徴と言う風に私は解釈しています。
『服飾事典』などによりますと近江上布は“湖東地域で織られた麻の布の総称”となっていてこの認識は特許庁も同じです。

(ここからは余談と大西さんの私見になるそうです)

近江上布と言うのはたぶん近江商人によって全国に広まっていったので、近江商人が各地方にばらまき帰りに様々な情報を持って帰って来てそれが物作りに生かされる。と言う事は近江上布は常に時代と共に変化していくので「これぞ近江上布」という物が残っていないのだと思います。
麻の産地の中でこれほど時代と共に変わっていた所は無いのではないか?と思います。
時代と共にいろんな形態に変わって行った為に、他の上布(越後、宮古、能登、富山)はすべて国か県の文化財の指定を受けたしますが、麻織物で唯一近江上布だけは文化財の指定を受けていません。それはたぶん「こいつらは放っておいても、うまい事生きていきよるやろう。うまい事物を作っていきよるな」と言うので認定の必要が無かったのではないか?
そしてもう一つ、大坂京都の商市と名古屋の商市のちょうど中間点にあり集散地が両方にあるから苦労せずに売れていった。それで常に消費者のニーズを商品に反映できるような立地条件にあった。
それが為に、近江上布の代表と言える物が無かったのではないかと思います。
間違っていたらごめんなさい。

物が流通に乗って行く勢いで、畑で麻を栽培し、手もみして、織るという作業が全部できなくなるので「紡績でやろう」ということになります。
紡績も麻紡は明治の頃に大津で初めて行ったという文献があります。たぶん稲枝地区も昔は麻の畑が多くあり、(推測ですが)苧麻ではなく大麻であったのかな。と思います。
今は日本ではほとんど大麻は栽培が禁止されています。
繊維型は都道府県知事の許可があれば栽培できますが、薬用・医療等々での栽培は禁止されています。
大麻は一部、群馬県では皇室の使用される物や神社に使用される物の為に栽培されていますが、それ以外には無い筈です。
今は問題になっていますので、無いとは言い切れませんが…

私は何も偉い仕事をしているわけではなく、する人が居なくなってしまったのです。着物を主力としてやっていますので着物が売れない時に後継者が居ないのです。
皆さんも色んなところで体験などをされると思いますが、1寸2寸ならば体験でも織れますが、着物一反は3丈6尺になります。メートルにすると約14mです、この長さを傷もなくきちっと織ろうとすると、肉体的にも精神的にもかなり追い詰められます。毎日毎日同じ柄を織る訳ですが14mで大体5日~1週間、柄が変われば気持の変化もあるのですが精神的にも疲労が続きます。
その疲れに耐えられないと続かないのです。余計な事を考えないで14m織り続ける、余計な事を考えると柄を間違えたり傷を作ったりします。
もし半分くらいのところで傷ができても残りを織るまで終わらないのです。途中で傷を分かって残りを織るのはとてもキツイです。
麻は糸が硬いのに布は向こうが透けるくらい薄い物なので物凄く難しいです。ですから傷ができるのですがそれを承知で織るのは面白くないのです、切って捨てたいくらい。
ですからそれに耐えられるくらいの脳の構造でないと難しいです、ですから皆さん辞めて行かれるのかも知れません。
また仕事があればいいですが、あるのか無いのか分からないのもこの仕事です。注文される方はほとんど居ませんので自分が勝手に作り、偶々気に入ったお客さんが居られたら買って下さいますがそうでなければ売れない、でも作っておかないと余計に売れないのです。こうなると一か八かで自分の好きなものを作る事になります。
今は問屋さんがリスクを背負わないで問屋さんの機能を果たさずに、借りて行って売れたら代金を支払う形になっています。ですから売れる売れないに関わらず物作りをしないといけないのです、作った物がお金に変わる確率は絶望的に低いのです。
そんな事が出来る人間が居なくなった、居なくなったからここでお話させていただけるのですが、いつまで続けるか保証はないですが続けられるうちは続けていこうと思います。
誰か、やってみようかな?と言う方が居られたらお教えは致します。でも全部ができるようになっていただくには10年は掛ると思います。
やってみようという方が居られたら後継者育成をいたします。

どれだけ立派な物があっても潰れたら終わりです、続いていく事が大切なのです。
ですから「手仕事だけが立派ではない」と私は思います。手仕事だけにこだわるとおそらく反物一反が10万20万の値ではなく何百万になります、ですから手仕事だけでは無理ですから機械で使える物はどんどん使って安く提供できるようにしないとますます着物離れが起こります。
やはり色にしても値段にしても若い方に着ていただける物も作っていかないと思います。
そこはやり方と言うか、着物と言えばお年寄りと言う考え方が間違っていたのではないか。ですからこれからの方にはそういう方向でおやりいただければ道は開けるのではないか?と思っています。

麻というのは水には強いですが乾燥に弱いのです。
ですから北風が吹いていたりすれば殆ど織れません、嫌になるくらい切れます。逆に雪がドンと降ってしまうとまた変わります。
ですから麻の製品をお持ちの方はできるだけ高温のアイロンはお避け頂いた方がいいと思います。
麻は全然伸縮がなく引っ張ったらすぐ切れます、綿やシルクはまだ柔軟なのです。ですから麻は凄く神経を使います。そんな物だと思い文句を言いながらでも仕事をしていますが…

昨年、ある事情で「原材料も国産にした方がいいのかな」と思う事がありました。たまたま新海(彦根市最南の町)で自生している苧麻がありそれをいろんな方に教えていただいて刈り取って使います。乾燥させて手がらを巻き、それを手で裂くのですこれがいわゆる手麻績み(ておうみ)です。昔は暇があれば裂いていたと思います。そうれなければあれだけの反物はできない筈なのです。
でも世の中にはたくさんの反物が出回っています、それは中国なのです。ですから正直に言えば近江上布の技術も中国にお願いして残してもらわないと残らないかもしれません。それはそれで構わないので「どこどこで作った」とはっきり明記すればいいのです。

ですから私がやっているのも現送は海外です、これはお客さんにはっきり言います。
そして紡績は広島、染め・織りは滋賀県内で行います。現送まで自分の所でやるのは不可能に近い話ですから。


最初に申しましたように近江上布の解釈の仕方は人まちまちです。ある先生によると「近江上布は消滅した」とおっしゃいます。それはその先生が縦横大麻の物を近江上布とおっしゃるのであればはっきり消滅しています(現代では大麻と苧麻を使う)。
ですから近江上布が麻100%という方もいれば、「何が入っててもええやん」と言う方もおられます、ですから「これが近江上布」というのはありません。
ただ、私が近江上布を名乗る時は麻100%を指しています。
また近江上布=伝統工芸品でもありません。
ただ歴史的にいえば一般の方の近江上布といえば「手織りの着物のかすり」と思われているお客さんが多いのは事実です。それは自分がどう解釈するかだけの問題です。

私は伝統工芸士ですが、伝統工芸士は車の免許と一緒なんです。5年に一度切り替えがあってお金を払って講習を受ける。ですから伝統工芸士が国の援助を受けて楽々に暮らしているというわけでもありません。
運転免許と全く同じなんです。

近江上布は後継者がゼロに近いですが、麻だけでは生活ができず、それだけに「誰かやってくれ」とはなかなか言えません。でもやはり何百年の伝統がある訳なので残さないといけないのも事実です。
そうでなければ消滅してしまいます。伝統的工芸品に指定されてるのは“生平(きびら・麻布で、さらしてないもの、夏の季語)”と“かすり”ですが、生平はほぼ全滅ですね。
かすり織りについては私が“型紙捺染(型紙での染色法)”、もう一か所で“櫛押捺染(櫛の背に似た木片での染色法)”が採用されていますが型紙捺染は危ないです。
型紙捺染は自由にできて絵のようなものは作りやすいのですが、小さな文様ができないのです。ですから一長一短があります。
これらの技法も機械化できればすればいいのですが、それでも誰かが受け継いでくれるかどうか?
心ある方にぜひ挑戦していただきたいです。
近江上布はどういう形で次の世に残していけるのか?
滋賀県の財産として行政も含め考えていただければありがたいです。ゼロにしてからもう一度復活させるにはできないです。
続けられている間に続けていかないと、行政もそういう方向で考えていただかないと消滅します、カルチャー的に体験するのも知ってもらう上で大事ですがきちっとした物が世に出せて皆さんに見ていただける。これが作れていかないと独りよがりで終わってしまいます。
どれだけ手が掛かっていても買う側には関係ありません。出来栄えと価格との値打ちがどれだけ訴えられるかなのです。商売にするためにはお金を貰わないといけない、その兼ね合いをどうするかです。
現送から作れればいいのですが、それは難しいので紡績でいいと思います。
原料が国内で紡績も国内なら全て国内ですから。

大麻はおそらく稲枝近辺で栽培されていたと思います。
特に戦中はパラシュートや戦闘機の翼に水に強い麻が使われていた事がありますので、そういう事からすれば麻畑があったのではないか?と推測することはできます。
この辺りは、詳しい方に聞いていただきたいと思います。



質疑応答
(質問者)
麻と縮みの違いはなんですか?
(大西さん)
縮みは麻を織った物を手で束にして、昔の洗濯板で揉んで仕上げに応じた縮みの高さを揃えて一晩干して甘より程度のよりをかけるていく物。
今は機械でやります、手ではやりません。

(質問者)
彦根藩の名産として近江上布があり、服部は機織り部だったと聞いていますが、織るだけではなく染めの人も居たのでしょうか?
(大西さん)
染めの職人さんは稲枝では聞いた事がありません。能登川では今もありますが稲枝では、私の生きていた間ではわかりません。
上布は献上するからという説と、細い糸で織るからという説がありどっちが正しいかはわかりませんが、「みんなが“上布”と言うなら、うちは“下布”でいこか」なんて考えてもみます。そういう訳のわからない事でもやらないと面白くないですよ。
面白い発想はありませんか?

服部は分かりませんが、薩摩・柳川辺りはかなり織物をする家があったようですね。
でも江戸時代は彦根藩が奨励していますから結構あったのではないでしょうかね。

余談ですが、街道が通っている場所で麻の産地が残っているのは近江上布だけなのです。他の場所は雪深かったり島であったりなので、彦根でよく残ったと不思議に思います。
他の場所では問屋があり、そこに持って行けばどんどん買ってもらえる仕組みがあったのですが、滋賀県は産地問屋の仕組みが維持できませんでした。産元の個人零細企業を管理できる問屋があればもっと技術が残ったのでしょうが、大坂・名古屋のど真ん中にあったのでみんなが自分で売りに行けるんです。
同じ組合員でありながら価格での大喧嘩もありました。今生産地が残っているのは決まった所から出てくる物です。
ですから近江上布も産地問屋があれば良いのですが、そんな方もいません。でも他にどこからも出ないから儲かるかもしれませんね。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。