先週から始まった連続講座の運営に追われている。
オペラ『MACBETH』の主宰者の方々は、
事務局から裏方からソリストまで、
あらゆるシゴトをたった2人で完璧にこなしてくださっている。
ジャンルは全然違うけど、まぁそれと同じような仕事。
ソリスト部分は先生がやってくれるから、それ以外のこと全部。
特に事務局業務。これが実に煩雑で膨大。
何百人規模のイベントを仕切ることもあれば、
数十人ていどのセミナーのこともある。
それが週1ペースの連続講座ともなれば、
激務とはいわないまでも、雑用には妙に途切れがない。
だけど。
終わったら休みたい、と思っても、辞めたいとは何故か思わない。
なんだろうな。
やっぱりこういう仕事が好きみたい。
あらゆることの期限が重く肩にのしかかって一斉に迫ってきていても、
単に、なんとなくそういう気分にならないから、というだけの理由で、
まったく手を動かさないことが、結構ある。
いついつまでに、あれをこうして、これをああやって、と、
頭のなかでだけ、ちゃんと考えてはいるんだけど。
でも、その気になるまでは、何もしない。
なんか直感的に、今だ!と思うタイミングみたいなものがあって、
そこから先、集中して一気に片づける。
期限に間に合う、間に合わない、という野生の勘みたいなものが働く。
こんなやり方をしているから、
気分が乗ってからデッドラインまでの時間が短くなりがち。
ときには、寝食を犠牲にしなければならない集中度になる。
どんなに困ったな、大変だな、と思っても、
人に頼ったり任せたり甘えたり泣きついたりがうまくできないから、
結局は限られた時間のなかで全部ひとりで抱え込むことになる。
自分でも、たまに、何やってんだか、と思う。
今度こそ、試験が終わったら旅に出るぞっ!
半分は仕事みたいな旅だけどなー・・・しかも極寒。
少し前のことになるが、師匠に頼まれて、
とある女性団体のチャリティコンサートを聴きに出かけた。
去年、やっぱり師匠に頼まれて出席した櫻井よしこさんの講演会も、
同じ団体が開催したものだった。
今回は、難病の子どもたち支援のための、ノルウェイ音楽の演奏会。
珍しい楽器らしいと聞いて、とりあえず顔だけは出してみた。
「ハルダンゲルヴァイオリン」というその楽器は、ノルウェイの国民的楽器で、
「日本でいえばお琴や三味線のような楽器です」と紹介された。
ふつうのヴァイオリンと同じ形だけど、一回り大ぶりに見えた。
弦が4本と5本の二層になっていて、下の5本は駒の真ん中をとおっている。
この下層の共鳴弦があることで、
なんともいえない温かみのある厚い響きが加わった、
親しみのもてる雰囲気の音色になっている。
糸巻き部の先端は龍の頭の形に掘られている。
日本の箏も、楽器本体を龍に喩えた名称が各部についているし、
三絃の棹のてっぺんも「天神」という神聖な呼び名だったりする。
楽器というものの、遥かなるルーツに想いを馳せながら聴く。
本体は唐草模様のペインティングでぐるりと縁どられ、
三絃でいうと「棹」の部分には、上から下までびっしり、
真珠母貝の螺鈿細工で紋章の連続模様が掘り込まれている。
(画像拝借元:http://storage.kanshin.com/free/img_15/159770/1684700721.jpg)
これだけ凝った細工が施されているのに、
楽器としての寿命は数年からせいぜい10年ほどと短いらしい。
珍しい姿かたちを、見て、触らせてもらって、
音色を聴かせてもらったほかに、へぇ~と思う豆知識も聞けた。
まず、ノルウェイの音楽には打楽器が無いということ。
このハルダンゲルヴァイオリンを奏でながら、
手拍子や足拍子でリズムをとって音楽を全身で楽しむのだそう。
そして、このハルダンゲルヴァイオリン独特の共鳴弦。
5本の共鳴弦を端から順番に鳴らしていくと、
かの有名なグリークの組曲『ペールギュント』の第1曲「朝」の旋律になる。
なんだか北欧に行きたくなってきた。
オスロであたりで『ペールギュント』を、
ヘルシンキあたりで大好きな『フィンランディア』を聴いて、ぼんやりしたい。
でも、できれば夏がいいかな。
師匠の稽古に続いて、ロシア公演のリハーサル。
演奏しながら力の限り歌う。
人数が少ない舞台は、音も声も、体力勝負。
「通し稽古 そっちのほうが大事じゃないですか」
一緒にモスクワに行くイケメンくんにせきたてられ、
リハーサルを終えたその足で、都心を大横断して稽古場へ。
オペラ合唱はいくらでもカバーしてくれる人がいるし。
うそぶきつつ、稽古場に着いたのは第3幕が始まってから。
何回ぶりかもう思い出せないけど、とりあえず皆さんに頭下げつつ、
残り1時間とちょっと、記憶を掘り起こしながら再び全力で歌う。
「あっちのオペラは1回ぐらい休んでもいいじゃない、飲み会においでよ」
アルト仲間たちからの激しいお誘い攻撃を振り切って、
通し稽古を終えたその足で、都心に戻る。
2つめのオペラの稽古場には、早い時間に到着した。
観に来てくれると約束していた仲間に、チケットをお渡しする。
しばらくぶりに会った仲間のおじさまから、
「マエストロは元気にしてる?」と訊かれて、首をかしげて、たぶん、と答える。
話しかけてもらえるような立場にないから、よく分からない。
ただひたすら、最初から最後まで通して歌うだけの練習を2回。
指揮がよく分からないから、ピアニストの動きを見て三たび全力で歌う。
「来週からは僕は見てるだけです。がんばってください」と言われて終了。
3つ連続だったからか、3つめがこんな調子だったからか、
とにかくエネルギーを消耗した。
なんかすごく疲れた。 夕食の器を2回もひっくり返した。
今夜は試験準備も頼まれている翻訳仕事も、もうよしにしよう。
来週の第6戦に向けたパワポづくりしなきゃと思って、
朝から研究室にこもったものの。
木曜日から始まった連続講座の反響がいくつも来ている。
一通ずつ返事を書き、次の案内を配信し、ウェブを更新する。
わさわさと仕事を片づけながらだと、どうも考えがまとまらない。
パワポづくりに取りかかれないまま、腹時計の針がお昼を指した。
食事して戻ってきたら、審査員たちのやり取りのccメールが入っていた。
どうにもこうにも5人の調整がつかない様子が伝わってきた。
なんだかなー。
審査員の日程が合わないっていう理由で、
学生が博士課程を修了できないなんてこと、あるんだろうか。
あったらスゴイけど、ここだったら余裕でありそう、っていうのも恐ろしい。
こんなに事細かく手続き日程が決められてる意味も分からないし、
これじゃあ5人もの教授のスケジュールが合わないのは当たり前。
学生もフルタイムで職を持ってる社会人なんだし。
最高学府というのは、人様の人生を最も瀬戸際で預かる教育機関。
博士課程なんて、修了、即、プロの研究者、というのが前提なわけだから。
修了時期をふらふらふらふら延ばし延ばしにされたのでは、
人生が狂ってしょうがない。
思えば、中間発表も、論文発表会も、すべてがこの調子だったな。
さんざんグズグズグズグズした挙句、日にちが決まった途端、
寝ないでやらなきゃ間に合わないようなペースであれこれ注文がつく。
社会人の博士候補に対してこの扱いってことは、学部生って・・・
推して知るべし。
勝ちて帰れ!
(『AIDA』第1幕より)
胸の中で、繰り返し、そう歌う。
明日から連戦連勝しなければならない。
何度勝てば終わるか、自分に賭けるしかない。
早く凱旋の歌が歌えるといい。
「音楽をやっていると、無音の時間も必要」って、
誰が言ってたんだったか。
たしかにニッポンの、特に都会は、やかましすぎる。
ニッポン人って、こんなにも音に鈍感だったのかと思う。
急用ででかけた久々の休日の銀座は、
速足ですり抜けるのが精一杯な音量の喧騒と、息が詰まる雑踏。
ニューヨークの繁華街あたりは似たようなものだけど、
ヨーロッパ大陸って、基本、静かなんだよな~
初めて海外のオーケストラを現地で聴いたのは、
楽友協会でのウィーン・フィルだった。
コンサートマスターのヴァイオリンの音色のえもいわれぬ美しさは、
本当に衝撃だった。
思い出した、大野和士の『Werther』で涙が止まらなかった音は、
このときのヴァイオリンに似ていた。
なんとなく、ヨーロッパには音へのデリカシーというものがある気がする。
ま、こんなとりとめのない文を書き散らしていられるのは、
博士論文の“審査員に叩かれバージョン”がとりあえず完成して、
本文5冊と別添資料集5冊が刷り上ったから。
明日いっぱいまで、ちょっと休憩。
叩かれるのはこれからだし。
あとは、なるようにしかならないし。
いよいよ明後日から、最終決戦に突入
ミスコミュニケーションということが、とにかくストレスに感じられてならない。
相手が何を言いたいのか分からない、というのも、
どんなに説明を尽くしても分かってもらえない、というのも。
昨夜のオペラ合唱の先生がこの代表で。
(それどころか昨夜は指導放棄で、行っただけ時間の無駄だった)
たまたま、もう片方のオペラの指導者とはきれいに対照的なものだから、
毎度毎度、この2人は一体何が違ってこんなにも差があるのかと、
考えさせられる。
どうも、歌い手と指揮者、というだけではないような。
それでふと思うのは、人に対して発する言葉への気遣いかな、ということ。
たとえば、「がんばる」という言葉。
個人的には、できるだけ人に「がんばれ」とは言わないようにしている。
自分で「がんばります」と言うことには何の抵抗もないのだけれど、
人に「がんばって」と言うときには、“上から目線”な言葉だという気がする。
どこか、突き放したニュアンスが含まれる。
人に「がんばって」と言うことが間違っているわけではないので、
人から言われていちいち目くじら立てているわけでも全然ないけど、
自分のなかでの、人に対する言葉へのちょっとしたこだわりのひとつではある。
先の2人、この言葉の遣い方が違う。
言ってることが分からないほうは、「まぁ、がんばってください」とよく言う。
「音取りのCDもありますから、皆さん、それでまぁがんばってください」と。
そう言われると、先生は受講生に完全自習させるんですか、とカチンとくる。
「マエストロに違うって言われても僕の責任じゃありません~」と続くから、
余計に神経が逆なでされる。
ヒイラギがボイコットしてた間も、みんながんばってたみたいだけどなぁ。
何言われてるのか、どう歌えばいいのか、全然分かんないなかで。
ここ2年ほどお世話になったマエストロのほうは、いつも決まって、
「がんばっていきましょう」という言い方をする。
そう言われると、この人が一緒だから大丈夫、という気持ちになる。
信じてついて行けばいいのだという気にもなる。
そういう言葉遣いのセンスって、年をとるほど人格が表れるもの。
このセンスが合うか合わないかで、分かれてしまうのかなぁ。
<本日のおまけ>
ぬらりひクン、
「首席」は「素晴らしい♪」で合ってるけど、
「幼稚園」は「美味し」くないからね。
正しく憶えていこうね~
先週の『AIDA』に続いて、オペラ鑑賞。
今日はコンサート形式で上演されたマスネの歌劇『Werther』
演奏はフランス国立リヨン歌劇場管弦楽団、
指揮は首席指揮者の大野和士。
久しぶりに顔を出した稽古場でオペラ仲間から「どうだった?」と問われて、
最初に口をついて出た感想は、
――素晴らしかった・・・
それから、
――ものすごく綺麗な音だった・・・
あとは絶句。 どんな言葉で表現してもきっと凡庸になる。
強いて言えば、繊細なときも、ダイナミックなときも、
甘美なときも悲壮なときも、
一貫して、すぐれて透明な澄みわたった音色で紡がれる音楽。
とても厳密に緻密に組み立てられているはずなのに、冷たくない。
感情を揺さぶられるような熱さが音色の奥底に潜んでいた。
両腕をいっぱいに広げて大きく振ったかと思えば、さっと中腰に構え、
緩急も、強弱も、指揮棒の先の微妙な揺らぎひとつで自在に操る。
激しく振っているようでいて、でも、すっとしていて優雅な指揮に、
オケも、ほとんど背中合わせのソリストも、ぴったりついていく。
先週の『AIDA』とは対照的。
これが指揮者のカリスマ性というものか。
第一幕でウェルテルが登場したあたりから、なぜだろうか、号泣。
物語はまだほとんど始まっていないのに。
そのくらい、音楽そのものと音が美しかった。
おまけの感想。
開演前のプレトークでは、自らピアノで主要なモティーフを弾きながら、
熱弁をふるってくれたマエストロ。
「今日はたぶん、ほとんどの皆さんが、この作品の原作となった
ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を読んでおられることと思いますが…」
ごめんなさい、読んでません。