先週の東京都中学校アンサンブルコンテストの審査の際、審査員同士の会話の中で、演奏時の身体の動きが話題に上がった。
最近では暗譜して立奏するのが流行りなようで、したがって譜面を見ることもないので目線や、何もせず立ち尽くしているだけでも不自然だと感じるのかもしれない。
そんな訳なのか、色々な動きを駆使して臨んでいるアンサンブルがいくつか見受けられ、審査員の間では「過度に動いて違和感がある。」と口々に話していた。
確かにプロの演奏家は無駄な動きがあまり無く、過度に身体が動くときには、むしろアンサンブルや演奏が危うい場面に散見されることが多い。
私は全く動かないよりは何かしらの動きがあった方が良いとは思うが、身体が動かすことによって出だしの音の精度が乱れてしまっては本末転倒になるので、情況に応じて適切に動くのが良いのではと考えている。
身体の動きは、どのように音楽を感じているのかが視覚的に表れるものではあるが、そのような演奏を見聴きしているうちに当人たちはどのように感じているか少し気になった。
中学生にとっては、実は音楽の自然な感じ方がそのような身体の動きとなり、それが我々にとって過度に見えたとしても、それはこちらの感じていることが正しいということは簡単に言えないような気がした。
おそらく中学生と我々の感じ方には隔たりもあるのだろう。
動きも含めて技術の根幹にある感じ方に対してはあれこれと押し付けず、見守って行くのが良いのでと感じたところだった。
最近では暗譜して立奏するのが流行りなようで、したがって譜面を見ることもないので目線や、何もせず立ち尽くしているだけでも不自然だと感じるのかもしれない。
そんな訳なのか、色々な動きを駆使して臨んでいるアンサンブルがいくつか見受けられ、審査員の間では「過度に動いて違和感がある。」と口々に話していた。
確かにプロの演奏家は無駄な動きがあまり無く、過度に身体が動くときには、むしろアンサンブルや演奏が危うい場面に散見されることが多い。
私は全く動かないよりは何かしらの動きがあった方が良いとは思うが、身体が動かすことによって出だしの音の精度が乱れてしまっては本末転倒になるので、情況に応じて適切に動くのが良いのではと考えている。
身体の動きは、どのように音楽を感じているのかが視覚的に表れるものではあるが、そのような演奏を見聴きしているうちに当人たちはどのように感じているか少し気になった。
中学生にとっては、実は音楽の自然な感じ方がそのような身体の動きとなり、それが我々にとって過度に見えたとしても、それはこちらの感じていることが正しいということは簡単に言えないような気がした。
おそらく中学生と我々の感じ方には隔たりもあるのだろう。
動きも含めて技術の根幹にある感じ方に対してはあれこれと押し付けず、見守って行くのが良いのでと感じたところだった。