洗足にて、昨日休講したレッスンの補講をして、その後は渋谷にて、明日のジェロームのリサイタルのリハーサル。
ピアノはジェロームと同郷で旧知のコンビであるミカエル・エルシェイド氏。
彼の技術と、臨機応変な、そしてジェロームの攻めにも柔軟に、ウィットに富んだ対応が、見ていてもとても面白い。
後半はサックスアンサンブルとの共演。
私のアルト2番パートでも、しっかり見せ場をつくってくれる浅利さんの編曲が聴き所だろう。
メールで送られてきた楽譜を印刷する時間が無く、その場でiPadにダウンロードして、指で送りながら吹いていた人がいて、それも面白かった。
ピアノはジェロームと同郷で旧知のコンビであるミカエル・エルシェイド氏。
彼の技術と、臨機応変な、そしてジェロームの攻めにも柔軟に、ウィットに富んだ対応が、見ていてもとても面白い。
後半はサックスアンサンブルとの共演。
私のアルト2番パートでも、しっかり見せ場をつくってくれる浅利さんの編曲が聴き所だろう。
メールで送られてきた楽譜を印刷する時間が無く、その場でiPadにダウンロードして、指で送りながら吹いていた人がいて、それも面白かった。
今日は洗足のサックスオケへ。
その後は、いつもならレッスンだが、今日はフィリップ・ガイス先生の公開レッスンのため、皆で聴講しようということになり急遽休講。
3名の学生がヒンデミットのヴィオラソナタ、クレストンの協奏曲、イベールを聴かせてくれた。
ガイス先生のフィジカル、論理、文化と、色々な切り口から学生たちに迫るレッスンが印象的で、それに伴って学生も変わってくるのが興味深かった。
この様な機会に、大勢いるはずの学生が疎らなのは、なんだかとても勿体無いなと思ってしまう。
色々な臨時練習や行事など、学生たちも忙しいので仕方ない事ではあるのだが。
さらにその後は翌日の演奏会のゲネプロも行って、聴きに行けない私にとってはとてもありがたい機会だった。
その後は、いつもならレッスンだが、今日はフィリップ・ガイス先生の公開レッスンのため、皆で聴講しようということになり急遽休講。
3名の学生がヒンデミットのヴィオラソナタ、クレストンの協奏曲、イベールを聴かせてくれた。
ガイス先生のフィジカル、論理、文化と、色々な切り口から学生たちに迫るレッスンが印象的で、それに伴って学生も変わってくるのが興味深かった。
この様な機会に、大勢いるはずの学生が疎らなのは、なんだかとても勿体無いなと思ってしまう。
色々な臨時練習や行事など、学生たちも忙しいので仕方ない事ではあるのだが。
さらにその後は翌日の演奏会のゲネプロも行って、聴きに行けない私にとってはとてもありがたい機会だった。
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授業メモ
C限
本2年生 ベーシックトレーニング
・視聴CD: Edison Denisov: Concerto piccolo (saxo: Claude Delangle)
・Exercices d'Intonation p12(Jean-Marie Londeix)
・スケール(17の日課技術大練習(Taffanel et Gaubert)より)E.J.3
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シンフォニックファンファーレ東京の演奏会が来週に迫り、空いている時間を見つけて練習をはじめている。
技術的に難しいのはもちろんだが、今回はそれに加えてスタイルを捉える難しさがある。
演目の中にあるポロネーズとワルツは、特に難しい。
写真は先日おこなったサクソルン分奏から。
授業メモ
C限
本2年生 ベーシックトレーニング
・視聴CD: Edison Denisov: Concerto piccolo (saxo: Claude Delangle)
・Exercices d'Intonation p12(Jean-Marie Londeix)
・スケール(17の日課技術大練習(Taffanel et Gaubert)より)E.J.3
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シンフォニックファンファーレ東京の演奏会が来週に迫り、空いている時間を見つけて練習をはじめている。
技術的に難しいのはもちろんだが、今回はそれに加えてスタイルを捉える難しさがある。
演目の中にあるポロネーズとワルツは、特に難しい。
写真は先日おこなったサクソルン分奏から。
写真はずっと前に友人から演奏会の際にいただいたもの。
ソウルフルな顔をかたどった土の塊で、頭の部分に芝生の種が埋め込まれており、水を与えると芝生が髪の毛のように生えてくるというもの。
夏頃から水を与えて玄関先に置き、日ごとに少しずつ芝生が生えてきて、なかなかの長髪になってきたところで、昨日なんとカラスに捕られてしまった。
玄関先からカラスの鳴き声が聞こえてきて、外に出てみると、丁度それをくわえて飛び去る瞬間だった。
食べても決して美味しいものではないので返してほしいと、悔しい思いをした一幕だった。
ソウルフルな顔をかたどった土の塊で、頭の部分に芝生の種が埋め込まれており、水を与えると芝生が髪の毛のように生えてくるというもの。
夏頃から水を与えて玄関先に置き、日ごとに少しずつ芝生が生えてきて、なかなかの長髪になってきたところで、昨日なんとカラスに捕られてしまった。
玄関先からカラスの鳴き声が聞こえてきて、外に出てみると、丁度それをくわえて飛び去る瞬間だった。
食べても決して美味しいものではないので返してほしいと、悔しい思いをした一幕だった。
今日は江古田にある日本大学藝術学部へ。
来日中のアンサンブル・モデルンの演奏会が開催され、私もお誘いいただいた次第。
日芸キャンパスには初めて伺ったが、音大とはまた全然違う雰囲気の学生が歩いていて新鮮だった。
演奏会ではシェルシや武満徹、ブレット・ディーンの作品等、久しぶりに本格的で洗練された現代作品を聴いた。
その中で、伊藤弘之先生の作品「琥珀の城I-b」という、アルトサックスのための作品のバスクラ版を聴くことができ、リリカルで色彩的な伊藤作品も堪能することができた。
その後はアクタスに行き、少し個人練習させていただき、夜はハバネラとブルーオーロラの八重奏演奏会へ。
演奏は言わずもがな、今回は何よりも平野さんの行動力に脱帽だった。
演奏会の梯子に加え、今週溜まった疲労が抜けず、終演後は私だけ抜け殻のようになってしまった。
来日中のアンサンブル・モデルンの演奏会が開催され、私もお誘いいただいた次第。
日芸キャンパスには初めて伺ったが、音大とはまた全然違う雰囲気の学生が歩いていて新鮮だった。
演奏会ではシェルシや武満徹、ブレット・ディーンの作品等、久しぶりに本格的で洗練された現代作品を聴いた。
その中で、伊藤弘之先生の作品「琥珀の城I-b」という、アルトサックスのための作品のバスクラ版を聴くことができ、リリカルで色彩的な伊藤作品も堪能することができた。
その後はアクタスに行き、少し個人練習させていただき、夜はハバネラとブルーオーロラの八重奏演奏会へ。
演奏は言わずもがな、今回は何よりも平野さんの行動力に脱帽だった。
演奏会の梯子に加え、今週溜まった疲労が抜けず、終演後は私だけ抜け殻のようになってしまった。
今日は洗足へ。
ストラスブール音楽院で洗足の客員教授でもあるフィリップ・ガイス先生の提案で、今年から実験的に洗足との交換留学をしようという試みで、まずはストラスブール音楽院の学生2名がやってきて、私のレッスンを受けに来た。
写真は左からクリオ、レオ、私。
クリオとは初対面、レオは2年前にウィーンでレッスンしたことがあり、その時からさらに成長した様子だった。
彼らは緊張しつつも、また学生たちと思うようにコミュニケーションできずに気を揉んでいるように見えたが、始めて訪れた日本で、それぞれに情報収集してがんばっているようだ。
来週にはガイス先生と合流して、洗足で一緒に演奏会を開くとのことだ。
ストラスブール音楽院で洗足の客員教授でもあるフィリップ・ガイス先生の提案で、今年から実験的に洗足との交換留学をしようという試みで、まずはストラスブール音楽院の学生2名がやってきて、私のレッスンを受けに来た。
写真は左からクリオ、レオ、私。
クリオとは初対面、レオは2年前にウィーンでレッスンしたことがあり、その時からさらに成長した様子だった。
彼らは緊張しつつも、また学生たちと思うようにコミュニケーションできずに気を揉んでいるように見えたが、始めて訪れた日本で、それぞれに情報収集してがんばっているようだ。
来週にはガイス先生と合流して、洗足で一緒に演奏会を開くとのことだ。
私も仲間に入れてもらっている「シンフォニックファンファーレ東京」の演奏会まで2週間を切った。
今回は全てチャイコフスキーということで、またまた、これまでには味わったことのない体験ができるのではと期待しているが、やはりどれも技術的に加え、音楽的にも難しい。
ひとまずスコアを見て勉強したい。
今回は全てチャイコフスキーということで、またまた、これまでには味わったことのない体験ができるのではと期待しているが、やはりどれも技術的に加え、音楽的にも難しい。
ひとまずスコアを見て勉強したい。
尚美の火曜日レッスンだった。
今年度から一部の学生に、既に終わったエチュードを再び取り組んで、暗譜で持ってきてもらっている。
「暗譜」はフランス語で"par cœur"と言うそうで、直訳すると「心で」になるだろうか。
"cœur"は「心」の他に「優しさ」、「意欲」などの意味にもなるとのこと。
楽譜通りに演奏することが、基本的には大事だが、楽譜から目を離して、表現の探求、追求をすることも大事だろう。
今年度から一部の学生に、既に終わったエチュードを再び取り組んで、暗譜で持ってきてもらっている。
「暗譜」はフランス語で"par cœur"と言うそうで、直訳すると「心で」になるだろうか。
"cœur"は「心」の他に「優しさ」、「意欲」などの意味にもなるとのこと。
楽譜通りに演奏することが、基本的には大事だが、楽譜から目を離して、表現の探求、追求をすることも大事だろう。
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授業メモ
C限
本A1,2年生合同 ベーシックトレーニング
・視聴CD:八木澤教司:Concertino (saxo: 浅利真)
・Exercices d'Intonation p11(Jean-Marie Londeix)
・二重奏:Ave maria (Jacques Arcadelt)
*****************************
今日は中村先生の代講も兼ねて、一年生と合同の授業だった。
その後のD限は、中村先生と波多江先生の代講として室内楽も聴いた。
パスカルとリュエフを久しぶりに聴いて、1、2年生が難しい曲に挑戦していることに驚き、またサックスのオリジナル作品は、クラシカルなフィールドから見ると、ずいぶん特殊な音楽なのだなと感じてしまった。
夜になり、教員控室に戻ってみると、朝にはいたペッパーさんが居なくなっていた。
授業メモ
C限
本A1,2年生合同 ベーシックトレーニング
・視聴CD:八木澤教司:Concertino (saxo: 浅利真)
・Exercices d'Intonation p11(Jean-Marie Londeix)
・二重奏:Ave maria (Jacques Arcadelt)
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今日は中村先生の代講も兼ねて、一年生と合同の授業だった。
その後のD限は、中村先生と波多江先生の代講として室内楽も聴いた。
パスカルとリュエフを久しぶりに聴いて、1、2年生が難しい曲に挑戦していることに驚き、またサックスのオリジナル作品は、クラシカルなフィールドから見ると、ずいぶん特殊な音楽なのだなと感じてしまった。
夜になり、教員控室に戻ってみると、朝にはいたペッパーさんが居なくなっていた。
今日はサックスの演奏会を聴いた。
5年間に渡る壮大な連続演奏会の最終回で、盛り沢山のプログラムだった。
チラシのサイズ、ロゴやデザイン、プログラミング等、第一回から一貫した形と流れだったが、出入りの際の颯爽とした歩き方、力の抜けた立姿、会場が無駄なく響く音、曲目解説のうるわしい文章等、変わり行くものもあって興味深かったし、とてもカッコ良かった。
5年間に渡る壮大な連続演奏会の最終回で、盛り沢山のプログラムだった。
チラシのサイズ、ロゴやデザイン、プログラミング等、第一回から一貫した形と流れだったが、出入りの際の颯爽とした歩き方、力の抜けた立姿、会場が無駄なく響く音、曲目解説のうるわしい文章等、変わり行くものもあって興味深かったし、とてもカッコ良かった。
昨日の続き。
演奏の中で縦横が合わないのは、それは指揮者ではなく演奏者の責任であり、その為、少しでも合わせづらい箇所があれば、リハーサルの前後に自発的に楽団員同士でその場で軽く合わせたり、話し合ったりしている。
出来ない箇所、合わない箇所をそのままにはせず、誰かに指摘される前に、隙間の時間に出来るだけ解決しようと努力しているのは、やはり一人ひとりが自立し、責任を果たしているからに他ならない。
それだけ完成された集団の中に、指揮者が果たす役割とは何なのかと考えると、オケを物理的にまとめる事よりも、さらにその上にある役割と責任を背負っているのだろう。
古今東西、星の数ほどあるオーケストラ作品の、とりわけよく知られた作曲家や作品には、先人から受け継いだ解釈や演奏法があるが、それらを定石通りに行くか、もしくは行かないのか、一つにはその舵取りを担っている。
作品やオーケストラの持ち味を、整然と、シンプルに引き出す演奏、もしくは指揮者自身の流儀や技をぶつけてくる演奏もあるだろう。
もちろん一概に言える事ではないが、演奏会でも録音でも、指揮者はその時々の惹きつける演奏というものを求められており、たとえ定石通りの、よくまとめられた演奏ができたとしても、自分自身で音を出さない指揮者にとっては、聴衆や楽団員の印象に残らなければ、それは失敗したも同然と考えるかも知れない。
実は、私もかつてそんな指揮の依頼を受けたことがあった。
私にそんな役目が務まるとは思えなかったが、しかし飛躍する好機とも考え迷っていたが、しかし色々な事情でその依頼が流れてしまい一安心だったが、ただ私自身のこれからの指針を考えるきっかけになった。
写真はいただき物の大量の海苔を消費するべく作った、海苔の佃煮とビンの煮沸。
こちらは砂糖を入れず整然とシンプルに。
思いのほか簡単にできて、もっと早く作れば良かった。
演奏の中で縦横が合わないのは、それは指揮者ではなく演奏者の責任であり、その為、少しでも合わせづらい箇所があれば、リハーサルの前後に自発的に楽団員同士でその場で軽く合わせたり、話し合ったりしている。
出来ない箇所、合わない箇所をそのままにはせず、誰かに指摘される前に、隙間の時間に出来るだけ解決しようと努力しているのは、やはり一人ひとりが自立し、責任を果たしているからに他ならない。
それだけ完成された集団の中に、指揮者が果たす役割とは何なのかと考えると、オケを物理的にまとめる事よりも、さらにその上にある役割と責任を背負っているのだろう。
古今東西、星の数ほどあるオーケストラ作品の、とりわけよく知られた作曲家や作品には、先人から受け継いだ解釈や演奏法があるが、それらを定石通りに行くか、もしくは行かないのか、一つにはその舵取りを担っている。
作品やオーケストラの持ち味を、整然と、シンプルに引き出す演奏、もしくは指揮者自身の流儀や技をぶつけてくる演奏もあるだろう。
もちろん一概に言える事ではないが、演奏会でも録音でも、指揮者はその時々の惹きつける演奏というものを求められており、たとえ定石通りの、よくまとめられた演奏ができたとしても、自分自身で音を出さない指揮者にとっては、聴衆や楽団員の印象に残らなければ、それは失敗したも同然と考えるかも知れない。
実は、私もかつてそんな指揮の依頼を受けたことがあった。
私にそんな役目が務まるとは思えなかったが、しかし飛躍する好機とも考え迷っていたが、しかし色々な事情でその依頼が流れてしまい一安心だったが、ただ私自身のこれからの指針を考えるきっかけになった。
写真はいただき物の大量の海苔を消費するべく作った、海苔の佃煮とビンの煮沸。
こちらは砂糖を入れず整然とシンプルに。
思いのほか簡単にできて、もっと早く作れば良かった。
今年は色々なオーケストラに乗る機会が多く、その度にオーケストラについて考える機会も多かった。
これまで、オーケストラとは音楽の絶対的な真髄、全てであり、そして会社であり、社会の縮図でもあると思っていたが、この度色々な機会の中で、オーケーストラは指揮者によって、楽団員同士の楽屋での何気ないやり取りによっても、ステージ毎に少しずつ違った出来になり、オーケストラ其の物がまるで生き物のようでもあると感じた。
プロフェッショナルの楽団員は、集団でありながら一人ひとりが自立しており、そして高度な共通理解がある。
もちろん曲や状況にもよるが、たとえ指揮が無くても、アンサンブルの拡大版と捉えて、さして支障無く演奏することができるだろう。
指揮者よりも楽団員の方が、曲を深く理解しているということも、無い話ではない。
続きはまた後日。
写真は、昨日いただいた地元の中華屋さん「大新」の五目焼きそば。
これまで、オーケストラとは音楽の絶対的な真髄、全てであり、そして会社であり、社会の縮図でもあると思っていたが、この度色々な機会の中で、オーケーストラは指揮者によって、楽団員同士の楽屋での何気ないやり取りによっても、ステージ毎に少しずつ違った出来になり、オーケストラ其の物がまるで生き物のようでもあると感じた。
プロフェッショナルの楽団員は、集団でありながら一人ひとりが自立しており、そして高度な共通理解がある。
もちろん曲や状況にもよるが、たとえ指揮が無くても、アンサンブルの拡大版と捉えて、さして支障無く演奏することができるだろう。
指揮者よりも楽団員の方が、曲を深く理解しているということも、無い話ではない。
続きはまた後日。
写真は、昨日いただいた地元の中華屋さん「大新」の五目焼きそば。