虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

唇さみしなんとやらと大塩と新聞

2007-06-02 | 新聞・テレビから
朝日は先月、国民投票法案がと成立したあと、5月の後半からは紙面から憲法についての記事は消えた。相手をキッと見据えて、ダメだ!と反対することはおろか、一人だけ周囲から飛び出した言論をすることを恐れる。ただ、もぐもぐと不満をつぶやきはする。おれもほんとうは気がすすまないのだが、とは言うが、結局は衆に従うというご仁だ。

今までの社説の見出し。
国民投票法案 さあ改憲だとはいかぬ 
イラク特措法 反省も総括もないままに
集団的自衛権 何のために必要なのか
教育3法   疑問がいっそう膨らんだ
米軍再編措置法 説明不足の見切り発車だ
年金法案   これでは不信が高まる

こう書きながらも、しかし、文中に、「反対」も「抗議する」の言葉はどこにもない。お上を批判はするが、「反対」という言葉は禁句になってしまったのだろう。しかも、ぶつぶつ文句らしいことを云うのはそのときだけで、あとは忘れている。
今日の、
教育再生会議についての社説の見出しは、というと。
「一から出直したら」だ。
いかにも、反対しているみたいだが、文中に、この言葉はどこにもない。会議を公開にし、オブザーバーを置いたら、と提案しているだけ。この見出しはおかしい。反対のそぶりだけじゃないか。

話は変わるが、「大塩研究」という雑誌(1990年、28号)に藤田覚という学者が、松浦静山の甲子夜話の話を紹介しているのを見つけた。

「ある日、余(松浦)が聞きしは、諸氏登城のとき、大広間にて、あるご家門の某侯、何かについて、しかも大声で言わるるには、大坂に平八とか騒乱に及びしと云うが、民を救うとあれば、この事なれば、我らにも加担すべき筋ありといわれしを、その余の列侯は、目と目を見合わせて、一人も一句も言い出す人なかりきと」

江戸城の大広間で、たぶん若い殿様で、江戸城では新人だったのでしょう、大塩が救民の目的で騒動をおこしたのであれば、わたしも味方したい、と大声でいったのでしょう。
他の殿様連中が、「この世間知らずのアホ」と目と目を合わせて黙っていたたようすが目に浮かびます。

今の新聞、世間がこの「目と目を視比して、一人も一句も言い出すべき人無し」という中、大音にて物を云った殿様を見習わねば・・・。



漱石と多田源氏

2007-06-02 | 日記
清和源氏の祖廟とされる多田神社。
江戸時代は多田院といった。
徳川家も一応、清和源氏の出と称しているので、家綱の時代に再興された。
もともとは、源満仲が創建した。平安時代の人だ。
この多田院を警護した郎党たちを多田院御家人とよび、武士団の元祖といわれる。気の遠くなるほど古い話だ。

しかし、能勢はこの多田院御家人たちの子孫たちが一帯を支配した。
秀吉の時代、多田院御家人は知行地をとりあげられ、帰農させられたが、生き残ったのが能勢氏。関が原のとき、家康に味方した功で旗本になり、幕末まで続く。大目付や町奉行になった人もいる。

農に帰った多田院御家人たちの子孫たちは、この能勢では多くが庄屋として暮らしたが、自分の家系への誇りはとりわけ強かったようだ。知行地回復など、武士身分への復帰運動を執拗にくりかえしたと聞く。江戸時代は系図作りがはやり、家康をはじめ、諸大名はほとんど系図を創作したが、多田院御家人の子孫たちは、「わが家系ほど、最も古く、たしかなものはない」という思いだったのだろう。

漱石の「ぼっちゃん」は、この多田院御家人の末裔なのだろう。
宿直部屋でバッタ事件にあったとき、こう書いてある。
「これでも、元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で多田の満仲の後裔だ」

また、新聞に坊ちゃんのケンか騒ぎが載り、「近頃東京から赴任してきた生意気な某」と書いているのを見て、「某とは何だ」と、こう書く。
「これでも、れっきとした姓もあり名もあるんだ。系図が見たけりゃ、多田満仲以来の先祖を一人残らず拝ましてやらあ」
2回も多田満仲の名が出る。江戸で旗本なら、「坊ちゃん」は、能勢氏の一族なのだろうか、と思った。

気になって、註を見てみると、漱石の祖先は江戸の名主だったが、夏目家に伝わる系図によると、先祖は、多田の満仲の弟の多田の満快から八代目の「夏目」という旗本だった、と書いてあった。ふーん。