虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

慶応二年美作津山藩改政一揆からちょっと

2007-06-28 | 一揆
津山藩は越前松平家の家柄で佐幕。

幕末だ、藩政改革による増税、長州征伐の陣夫徴発、献納金の強要などで、庶民の暮らしは破壊され、慶応2年11月から翌正月まで暴れ回り、藩はお救い米2万4千俵を出してやっと鎮撫する。また、この一揆で、佐幕派が藩政を終われ、倒幕派が藩政をリードすることにもなる。

この一揆の史料は、近世日本庶民史料集成にあるのだけど、けっこう詳しく、しかも、他のよりも読みやすい。で、ちょっとだけ読んだ。「改正一乱記」という史料だ。書いた人は、当時の草莽。

この一揆の
発頭人は、仁木直吉郎 註によると、出雲大社のお札配り(にせ札ともいう)をしていて、行重村の後家お千代の入り婿になったという。持ち高10石。

史料では、「評にいわく。仁木直吉郎。今年、55歳にして、身の丈5尺3寸、四方肥えて、ひたいうすく、ほうひげ、むかうばたらずといえども(意味不明)、弁舌あざやかなり。心強なりといえども、生得、柔和にして、一度、この者と話してなびかずということなし。近来、まれなる曲者なり」とある。

また、この史料には、津山藩士井汲唯市という剣客が出てくる。
神道無念流。江戸の斉藤道場で、桂小五郎の次に塾頭になった人。勤皇派であり、天誅組騒動があったとき、井汲も仲間だと讒言する者があって、牢屋に入れられることも書いてある。この人は、第二奇兵隊脱退騒動を起こした立石孫一郎の剣の先生でもあって、立石が倉敷を襲った後、井汲を救い出すという噂を聞き、藩の迷惑を思って自殺した人だ。
一揆の史料に、幕末の倒幕派の人が出てくるのがおもしろい。幕末ならあたりまえか。この史料、腰すえて、今度読んでみよう。