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虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

香川敬三と多田隊

2005-07-24 | 歴史
香川敬三をごぞんじだろうか?
新選組ファンなら、近藤の処刑を主張したにっくきヤツ。
子母澤寛の「新選組始末記」には、有馬藤太が香川敬三を憤慨する言葉をのせている。
「実に口惜しいことであった。どうせ殺すなら拙者の手にかけてやりたかった。武士の情けさえ知らぬ香川ごときになんとしても心残りでたまらぬ」と、ある。

また、香川敬三は相楽総三の敵でもある。
長谷川伸の名著「相楽総三とその同志」で木村亀太郎という相楽総三の孫が、総三の形見の髪の毛を発見し、母親からこういわれる場面があります。
「祖父をそういう目にあわしたものの一人は香川敬三と今いっている人で、香川はわたしたちに怨み深いものだが、当今では高位高官で、宮内省のえらい人になっているから、お前がもしも相楽総三の孫だと知れたら、どんなことになろうか知れないから、心をつけて、覚られぬようにしなくてはいけない」
木村亀太郎は、宮内省の給仕をしてたんですね。

さて、摂津の多田院御家人の系譜をひく多田隊の人たち、どうも、この香川敬三の手足として利用された形跡が濃厚です。

岩倉たち公家は、藩ではなく(藩士は藩主との関係もあって、ややこしい)、自分直属の兵がほしかったのですね。それには、草莽が一番、使いよい。金もかからないし。

京都を出発したときの東山道鎮撫総督は、岩倉具定(具視の息子)。その旗本軍(中心軍)は、多田隊(20名)、山科隊(12人)、力士隊(25人)です。草莽です。
そして、参謀ではないけど、岩倉の側用人みたいな立場で香川敬三がいる。三井の手代もいる。

当然、相楽総三の赤報隊の処刑にも多田隊(新井三郎)がかかわり、近藤を糾弾したのものも多田隊員(脇田頼三)といわれる(「戊辰戦争と多田郷士」)。

特にこの脇田頼三という人は、香川の手駒として使われたようで、飛騨の監督に出た竹沢寛三郎のもとに小監察として派遣し、竹沢を逮捕させている。

相楽総三も飛騨の竹沢寛三郎も「年貢半減」をとなえたのが東山道鎮撫総督の怒りを買った理由だ。けちくさいのは、香川の特徴だと思う。

子母澤寛の「新選組始末記」に、香川が有馬になぜ近藤を殺したんだ、と聞かれて、こう答えています。「近藤を生かして置くと、それを監視するために、莫大な兵力を要するから仕方なく斬った」。

多田隊の脇田頼三は香川に用いられ、岩倉直属の部下になりますが、なぜか、処刑されてしまいます。利用され、捨てられたのでしょう。

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2 コメント

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活動活発化? (瓦版屋吉三郎)
2005-07-24 21:31:41
荘太郎さん、ちわ~

(源氏発祥の地)~(この香川敬三と多田隊)までとても面白く読ませていただきました。ってまだ終わっていないかも知れないけど(笑)



ちょっと活動活発化して来たんじゃないですか?いいですねえ、どんどんやって下さい。
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Unknown (荘太郎)
2005-07-24 23:24:11
吉三郎さん、まいどどうも。

多田院御家人については、これで、おわりでーす。



多田院御家人の自分の家系についての思いがまだ今ひとつわからないんですよ。たとえば、鴻池でしたか、あそこなんか、山中鹿之助の末裔でしょ。別に武士にあこがれることなく、商人にきっぱり転向してるのにな。



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