虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

ゴーリキー「幼年時代」

2009-01-31 | 読書
古本屋でゴーリキーを手に入れた。
ロシア文学全集11(日本ブック・クラブ)のゴリキー集。中身は、「幼年時代、人々の中で、私の大学」。3つの自伝が1冊におさまったもので、今ではなかなか得がたい1冊だ。ゴーリキーは、特にその自伝文学が傑作だとされている。ロシアの民衆の暮らしがまるでルポルタージュのように描かれる。

トルストイもツルゲーネフもクロポトキンもロシアの人々と生活を描いたが、かれらは貴族だ。ドストエフスキーやチェーホフは貴族ではないが、生活はまあ中流で(ふたしかだが)、だからこそインテリゲンチャだ。だが、ゴーリキーは10歳にして父母がなく、貧困の中で働きながら各地を放浪する、という底辺を生きる。ナロードニキたちは、人民の中へを合言葉に貧しい民衆に近づくが、ゴーリキーはまさにその民衆の一人。

まだ読み始めたばかりだけど、ゴーリキーだから書けると思ったところを一つ。

ゴーリキーは幼いころ、祖父にムチでたたかれて折檻されるが、そのとき捨て子のやさしいツイガーノフ青年が出てくる。この青年はゴーリキーがムチの刑を受けるとき、そっと自分の腕を出してゴーリキーの代わりにムチの一部を受けるのだが、この青年がゴーリキーにこんなことを言う。

「こんどまた折檻されるようなことがあったら、いいか、身体を縮めるんじゃないぜ、-わかるかい?身体ちぢめるとな、二倍も痛いんだぜ、それより身体を楽にして軟らかくしておくんだーゼリーみたいになって寝てるんだ!それからな、息をとめちゃいかん、息は十分にして、ありったけの声をだして、ワアワア泣くんだーおまえ、このことを覚えてろよ、そうすりゃ大丈夫だからな」

これは、実際に拷問、折檻にあった人だけがいえる体験談だと思う。わたしは、まだ拷問はされたことがないけど、病院の検査などで、だれでも似たようなことはされたことがあるだろう。とんでもないところに注射をされたり、管をつっこまれたり、時に検査は手術よりつらいときがある。そういうとき、身体をゆるくし、力をぬき、息をすると、たしかに楽。身体を固くしたほうが痛い。

この青年の教えはその通りだ。まあ、病院ではワアワア泣けないけど。

宇治探訪 山宣

2009-01-31 | 日記
宇治平等院にいった。10円玉の鳳凰堂だ。宇治は初めて。けっこう近い。大阪池田からだと1時間以内に着く。小雨が降っていた。だが、さすが世界遺産。見学者はけっこういた。鳳凰堂の内部は時間を区切って団体を案内する。大きな阿弥陀仏、楽器をもった雲に乗る天女像たち。藤原道長の子供頼道によって創建。創建当時は彩色あざやかで、極楽浄土をイメージできたそうだ。鳳凰堂の前は池で、7,8分で1周出来る。思ったより、小さい。春や秋はいいと思う。だが、人でいっぱいだろう。小雨のふる冬は静かな雰囲気だ。

平等院の駐車場のそばに「花やしき浮き舟園」という料理旅館(ホテル)があり、そこで昼食をとった。昼食にしては高いけど、前は宇治川が流れ、眺めのいい場所。実は、ここは、「山宣」といわれる山本宣治が若主人をしていた旅館。今は、かなり大きく、和食、中華、ステーキ料理もできる、このへんで一番大きく古い旅館(ホテル)ではなかろうか。まず、こんなところには泊まったことがない、そんな高級感がある。今の経営者も山本宣治の子孫(孫かな?)が経営する。

山本宣治、生物学を講じる学者だったが、労農党代議士となり、治安維持法に議員としてただ一人反対し、昭和3年、東京神田の旅館で右翼に暗殺される。39歳。今、小林多喜二が復活しているが、暗殺直前に山宣は小林多喜二に会っている。死後、日本共産党員ということになったらしいが、共産党という狭い枠だけでなく、戦前の数少ない反戦民主の闘士として広く注目されなければならない人物だろう。子供のころは病弱で、親は旅館の園芸師にしようとカナダに留学させたこともあるらしい。竹久夢二とも交流があり、夢二は山宣の奥さん(短命)を絵に描いたそうだ。

「花やしき浮き舟園」のパンフレットをもらったが、そこには料理の案内だけで、山宣のことは何も書いていない。はじめ、ここの経営者は、もう山宣の関係者ではなくなったのだろうか、資料なんかないのだろうか、と店員さんに聞くと、経営者は山本家です、資料館もあります、案内します、と資料館へ案内してくれた。「花やしき浮き舟園」の向かいにある路地を通り、古い家屋敷の細い道を歩くと立っている。昔の「花やしき」の蔵を資料館にしている。資料館という標識も看板もない。案内されないとわからない所だ。ドアを開けると、どうそ、といい、あとは「見学が終わったら戸を閉めておいてください」と帰ってしまった。自由に見られるわけだ。10畳ほどの広さの部屋に、山宣の資料がいろいろ置いてある。京都同志社山宣会の「山宣研究」や宇治山宣会の「山宣」という研究誌も置いていた。パネルがたくさん並べられている。ちょっと雑然として、大学の部室のような雰囲気。見学者ノートも置いていたので、ペラペラめくってみたが、わざわざ東京から来た人もいて、「山宣に会いたかった、ここに来るのが念願だった」という言葉もあり、今もなお、山宣を尊敬し続けている人もいることがわかる。平等院を訊ねたら、ここも寄ってみるといい。案内の標識はなにもないから、知る人だけしか知らない場所かもしれない。資料館は無人。

近くには、山宣の墓もあり、そこには暗殺される前に演説した山宣の言葉、「山宣ひとり孤塁を守る だが私は淋しくはない。背後には大衆が支持しているから」という言葉が刻まれているそうだ。(この碑文は戦前はセメントでぬりつびされたそうだが)。墓までは訪ねなかった。そこまで関心はなく、まだよく知らない人だから。

そのあと、西国33個所の10番札所三室戸寺、黄檗山萬福寺にいってきた。
最近、画像をアップすることができなくなった。残念。