(承前)
前回の更新から1週間以上が過ぎてしまい、旅も終わりに近づいて筆者のモチベーションがダダ下がりなのがはた目にもバレバレになっており、申し訳ありませんが、がんばって続きを書こうと思います。
前項で筆者は「岡山芸術交流」に否定的なことを書きました。
ただ、これはあくまでリボーンやあいトリに比較して、とのことです。
もしこの内容の展覧会が道内で開かれていれば、見に行ったでしょうし、ほかの人にもすすめていたと思います。
参加作家ほとんど全員が海外拠点というのも、国内ではほかにないことです。
ただ、作品そのものが難解なのは仕方ないとして、作品に添えられたテキストが機械翻訳のようで、読んでもよく分からない。
なにより閉口したのは、たとえば、この項で画像を何枚もあげているのが、ファビアン・ジロー&ラファエル・シボーニが、閉校した小学校の中に展開したインスタレーションと映像作品なのですが、字幕が英語だけで、筆者の貧弱な語学力では、ほとんど理解できません。
そういう意味からも、この「岡山芸術交流」は、見る人を選ぶタイプの芸術祭だということができます。
海外の現代アートの潮流に通じ、英文も支障なく読める、いわば「現代アートおたく」の人はウエルカムですが、筆者のようなぼんくらは相手にしていないということなのかもしれません。でも、たいていの人はぼんくらだと思われたくないでしょうから「岡山芸術交流、おもしろいよね」と言いたくなるのかもしれないです。
このインスタレーションと映像がどれだけの規模だったかを、ひとくちでいうのはむずかしいのですが、10以上の教室を使っていたのはまちがいありません。
以前の芸術祭やトリエンナーレであれば、となりの教室から他の作家の映像作品の音が漏れてきたというようなことはよくあったので、一つの学校を1組の作家にフルに使ってもらっていたのは、率直にいいなあ、ぜいたくだなあと感心します(まあ、札幌国際芸術祭でも、札幌芸術の森美術館は事実上、クリスチャン・マークレーの個展になってましたが)。
ただ、会場で見たときは
「The Everted Capital (1971 - 4936), The Unmanned, Season 2, Episode 2」
というタイトルも分からず、画像の字幕も読めなかったので、いったいぜんたいなんのことやらと首をかしげながら教室から教室へと歩いていったのですが、一つだけ強烈に感じたことがありました。
この雰囲気は楳図かずおの漫画「漂流教室」に似ている!
図録によれば、この作品の世界は
「時は西暦4936年、舞台は廃墟となった学校。加速を続ける自転のせいで崩壊を始めた地球からの脱出を試みた不死の人類。有限の命の人類の生き残りが彼らを人質にする。これは三千年以上も毎日繰り返されてきた。」
という設定なので、「漂流教室」とはあまり似ていません。
教室に置かれた奇妙な装置が要するになんなのかは、さっぱり分かりません。
ただ、この「放棄された学校」という舞台設定が、あの石油ショックとノストラダムスの大予言の時代に、週刊少年サンデーを読んでいた子どもたちに大きなトラウマとショックを与えたであろう漫画との共通性を、感じさせたのだと思います。
ところで、なぜ1971年なんですかね。
この画像は当時のニクソン大統領ですが…。
地球からの初脱出(アポロ11号の月面着陸)は、1969年です。
先ほど、10以上の教室と書きましたが、この作品は中庭のビオトープにも展開しています。
ちょっと話はそれますが、ここでいちいち靴をぬいだり履いたりというのが、いささか面倒でした。
学校の中に入るとき靴をぬぐというのは非常に日本的な文化であり、海外の作家ばかりをそろえたこの催事に合っていないような気がします。
シートを敷くなどの対応をしてほしかったです。
科学とテクノロジーの変容、みたいなのが、おそらくこの「岡山芸術交流」の隠しテーマなのではないでしょうか。
芸術交流には「もし蛇が…」という副題がついていますが、エデンの園で人間に知恵の実を食べさせた動物のことをさすのであれば、人間の知恵がどのように暴走しつつあるかを、アートの側から問うているのかもしれません。
あるいは「終末観」という要素もあるかもしれません。ただ、日本の漫画やアニメなどに頻出するイメージとはだいぶ異なっているのは、確かです。
さて、会場となった旧小学校の体育館では、タレック・アトゥイの作品がたくさん並んでいました。
「楽器でないもので音を鳴らす」というアプローチには、クリスチャン・マークレーを想起させるものがありました。
オブジェと音と電気。
岡山芸術交流については、自分の無知と理解不足をさらしているような記述が続いて恥ずかしいですが、とりあえず次項で終わりにします。
前回の更新から1週間以上が過ぎてしまい、旅も終わりに近づいて筆者のモチベーションがダダ下がりなのがはた目にもバレバレになっており、申し訳ありませんが、がんばって続きを書こうと思います。
前項で筆者は「岡山芸術交流」に否定的なことを書きました。
ただ、これはあくまでリボーンやあいトリに比較して、とのことです。
もしこの内容の展覧会が道内で開かれていれば、見に行ったでしょうし、ほかの人にもすすめていたと思います。
参加作家ほとんど全員が海外拠点というのも、国内ではほかにないことです。
ただ、作品そのものが難解なのは仕方ないとして、作品に添えられたテキストが機械翻訳のようで、読んでもよく分からない。
なにより閉口したのは、たとえば、この項で画像を何枚もあげているのが、ファビアン・ジロー&ラファエル・シボーニが、閉校した小学校の中に展開したインスタレーションと映像作品なのですが、字幕が英語だけで、筆者の貧弱な語学力では、ほとんど理解できません。
そういう意味からも、この「岡山芸術交流」は、見る人を選ぶタイプの芸術祭だということができます。
海外の現代アートの潮流に通じ、英文も支障なく読める、いわば「現代アートおたく」の人はウエルカムですが、筆者のようなぼんくらは相手にしていないということなのかもしれません。でも、たいていの人はぼんくらだと思われたくないでしょうから「岡山芸術交流、おもしろいよね」と言いたくなるのかもしれないです。
このインスタレーションと映像がどれだけの規模だったかを、ひとくちでいうのはむずかしいのですが、10以上の教室を使っていたのはまちがいありません。
以前の芸術祭やトリエンナーレであれば、となりの教室から他の作家の映像作品の音が漏れてきたというようなことはよくあったので、一つの学校を1組の作家にフルに使ってもらっていたのは、率直にいいなあ、ぜいたくだなあと感心します(まあ、札幌国際芸術祭でも、札幌芸術の森美術館は事実上、クリスチャン・マークレーの個展になってましたが)。
ただ、会場で見たときは
「The Everted Capital (1971 - 4936), The Unmanned, Season 2, Episode 2」
というタイトルも分からず、画像の字幕も読めなかったので、いったいぜんたいなんのことやらと首をかしげながら教室から教室へと歩いていったのですが、一つだけ強烈に感じたことがありました。
この雰囲気は楳図かずおの漫画「漂流教室」に似ている!
図録によれば、この作品の世界は
「時は西暦4936年、舞台は廃墟となった学校。加速を続ける自転のせいで崩壊を始めた地球からの脱出を試みた不死の人類。有限の命の人類の生き残りが彼らを人質にする。これは三千年以上も毎日繰り返されてきた。」
という設定なので、「漂流教室」とはあまり似ていません。
教室に置かれた奇妙な装置が要するになんなのかは、さっぱり分かりません。
ただ、この「放棄された学校」という舞台設定が、あの石油ショックとノストラダムスの大予言の時代に、週刊少年サンデーを読んでいた子どもたちに大きなトラウマとショックを与えたであろう漫画との共通性を、感じさせたのだと思います。
ところで、なぜ1971年なんですかね。
この画像は当時のニクソン大統領ですが…。
地球からの初脱出(アポロ11号の月面着陸)は、1969年です。
先ほど、10以上の教室と書きましたが、この作品は中庭のビオトープにも展開しています。
ちょっと話はそれますが、ここでいちいち靴をぬいだり履いたりというのが、いささか面倒でした。
学校の中に入るとき靴をぬぐというのは非常に日本的な文化であり、海外の作家ばかりをそろえたこの催事に合っていないような気がします。
シートを敷くなどの対応をしてほしかったです。
科学とテクノロジーの変容、みたいなのが、おそらくこの「岡山芸術交流」の隠しテーマなのではないでしょうか。
芸術交流には「もし蛇が…」という副題がついていますが、エデンの園で人間に知恵の実を食べさせた動物のことをさすのであれば、人間の知恵がどのように暴走しつつあるかを、アートの側から問うているのかもしれません。
あるいは「終末観」という要素もあるかもしれません。ただ、日本の漫画やアニメなどに頻出するイメージとはだいぶ異なっているのは、確かです。
さて、会場となった旧小学校の体育館では、タレック・アトゥイの作品がたくさん並んでいました。
「楽器でないもので音を鳴らす」というアプローチには、クリスチャン・マークレーを想起させるものがありました。
オブジェと音と電気。
岡山芸術交流については、自分の無知と理解不足をさらしているような記述が続いて恥ずかしいですが、とりあえず次項で終わりにします。