2、3年前まで北星学園大写真部に所属し、いまは社会人となっている宮下摩衣子さんと福光友美さんの写真展。
すべてデジタルで撮られたカラーのスナップ。
宮下さんは18枚。いずれも題は附されていない。
福光さんは「光陰」と題した作品7枚と、「喜憂」という題のもとにまとめた24枚。「一喜一憂」をつづめてこしらえたことばだろうか。
正直なところ、すごい写真というよりは、日常のなかで撮った街の風景が多い。
機材はかなり古いように感じられるし(近年のデジタルカメラの進歩はめざましい)、プリントとマットの大きさが合ってないのも気になる。
でも、学生時代に写真に没頭したふたりが、社会人になってからも、マイペースで撮影を続けているというそのことが、なんだか好ましく思えるのだ。
福光さんの「光陰」のなかに、市内の豊平公園の横を通る何のへんてつもない道を正面から撮った1点がある。
ごくありふれた風景なのに、なぜか心惹かれる。
もしじぶんが冬の昼間にこの道を歩いていたら、やはりかばんからカメラを取り出してシャッターを切っていると思う。
その理由を説明するのは、ほとんど不可能だ。
冬の三角山を遠く望む空で、鳥が飛ぶ情景を切り取った1枚もいい。
あるいは、宮下さんの写真にある、赤い物置の横に置かれた「ミロのビーナス」の模型とか、観覧車ノルベサから見下ろした南4条西3丁目の交叉点や、そこを曲がる車のテールライト、釧路港とおぼしき風景などは、なぜ、筆者の心をひきつけるのだろう。
むろん、すべてがこちらの心にひびいてくるのではなくて、どうしてこんなのを撮るんだろうと思わされる写真も少なくない。でも、胸にひびいてくるものがある。
ふたりはプロのカメラマンではない。
社会人として忙しい日々をおくるなかで、なにか割り切れない思いを抱くこともあるのだろう。
その思いが、なにげないスナップに投影されているのではないか。
「わたしは、生きているよ」
そういう声が、だれもいない会場の1点1点から聞こえてくるようだった。
2009年1月29日(木)-2月3日(火)10:00-19:00
アートスペース201(中央区南2西1、山口中央ビル6階 地図B)
すべてデジタルで撮られたカラーのスナップ。
宮下さんは18枚。いずれも題は附されていない。
福光さんは「光陰」と題した作品7枚と、「喜憂」という題のもとにまとめた24枚。「一喜一憂」をつづめてこしらえたことばだろうか。
正直なところ、すごい写真というよりは、日常のなかで撮った街の風景が多い。
機材はかなり古いように感じられるし(近年のデジタルカメラの進歩はめざましい)、プリントとマットの大きさが合ってないのも気になる。
でも、学生時代に写真に没頭したふたりが、社会人になってからも、マイペースで撮影を続けているというそのことが、なんだか好ましく思えるのだ。
福光さんの「光陰」のなかに、市内の豊平公園の横を通る何のへんてつもない道を正面から撮った1点がある。
ごくありふれた風景なのに、なぜか心惹かれる。
もしじぶんが冬の昼間にこの道を歩いていたら、やはりかばんからカメラを取り出してシャッターを切っていると思う。
その理由を説明するのは、ほとんど不可能だ。
冬の三角山を遠く望む空で、鳥が飛ぶ情景を切り取った1枚もいい。
あるいは、宮下さんの写真にある、赤い物置の横に置かれた「ミロのビーナス」の模型とか、観覧車ノルベサから見下ろした南4条西3丁目の交叉点や、そこを曲がる車のテールライト、釧路港とおぼしき風景などは、なぜ、筆者の心をひきつけるのだろう。
むろん、すべてがこちらの心にひびいてくるのではなくて、どうしてこんなのを撮るんだろうと思わされる写真も少なくない。でも、胸にひびいてくるものがある。
ふたりはプロのカメラマンではない。
社会人として忙しい日々をおくるなかで、なにか割り切れない思いを抱くこともあるのだろう。
その思いが、なにげないスナップに投影されているのではないか。
「わたしは、生きているよ」
そういう声が、だれもいない会場の1点1点から聞こえてくるようだった。
2009年1月29日(木)-2月3日(火)10:00-19:00
アートスペース201(中央区南2西1、山口中央ビル6階 地図B)
日頃生活している範囲内の
視線の先がプリントされた、
そんなカンジでしょうか。
スナップ写真を撮るのは、
なかなか楽しいですね。
でも、時間がねー
その後見たチョロンでの
個展は、上手かったです。
スナップ写真は楽しいですし、いつもカメラを持ち歩いてさえいれば、あまり時間はかかんないと思いますよ。
チョロン、週末に行きたいなー。行けるかなあ。