ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

“会津武士の老妻女だったか”

2015-10-17 06:19:44 | 日記
会津若松へ行って来ました。
福島県立博物館で毎月一回開かれる館長講座「司馬遼太郎の東北紀行」受講のためです。

《司馬遼太郎の会津びいきは、筋金入りであった。
「街道をゆく」というシリーズのなかには、六編の東北紀行が含まれているが、
その秘められた中心が会津であることに気づいたのは、いつであったか。
司馬は正義を嫌った、イデオロギーの専制を拒んだ。
だからこそ、心乱れながら、会津への愛を語らずにはいられなかった。
司馬の会津への、東北への愛の根っこを探ってみたいと思う》
                     (福島県立博物館ホームページから抜粋)

私は、館長である赤坂憲雄先生(民俗学者・学習院大学教授・福島県立博物館館長)が大好きです。
今回も、いい講座内容でした。

会津人は、戊辰戦争後、凄惨な運命を背負わせられました。
シベリア流刑を思わせられるような下北半島に追われ辛酸をなめさせられたのです。
司馬遼太郎は、
  『歴史の中で、都市一つがこんな目に遭ったのは、会津若松市しかない』
と、述べています。
そしてまた、
  『新選組の苛烈な白刃によって、都の大路小路に屍をさらした長州人や長州系の
   浪士の数はおびただしく、そのことが、長州人の恨みを買った。
   恨みは会津藩にむけられ、やがて会津攻めとなって晴らされる』と。

後に、逆賊と称された会津藩の雪辱を晴らすべく、
山川浩が『京都守護職始末』という史録を出しましたが、
―――京でのことは、新選組がやったこと―――
との言いわけは書きませんでした。
司馬遼太郎は、この点に関して、
  『会津人というのはどこまでも謹直で、このあたりは牢固たる士風から出ているといっていい』
と記しています。

確かに「責め」を、雇われの外人部隊であった新選組に押し付けて、
「会津藩の責任ではない」
と弁明をすることもできたことでしょう。
逆賊との汚名を着せられながらも、藩主の松平容保は、孝明天皇との守秘の約定を
生涯かけて守り通しました。

ユネスコ世界記憶遺産に登録された南京事件に関して
《過去の不幸な歴史に過度に焦点を当てるのではなく…………》
と述べた我が国の首相とは、心意気の違いを覚えます。

講座を終えて、お城の三の丸跡に立てられている博物館の周りを散歩しました。
西に回った日射しの輝き。
楓の紅葉。
近くに白虎隊が自刃した飯盛山の山並み。

一人の、高齢女性が近づいて来て、
「どちらから?」
と言葉をかけられました。
80歳半ばでしょうか、杖は持っていましたが、ふるまいに品がありました。
しばし、立ち話をし、
「お気をつけて、また お出で下さい」
と言い残して駐車場を横切り、木立のなかへ、ゆっくりと歩み去っていったのです。

“会津武士の老妻女だったか”
タイムスリップした そんな思いが過った城下町の夕暮れ刻でした。
                                    〈ゴマメのばーば〉
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