ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

《もはや悲しみも嘆きも労苦もない》

2014-09-24 07:19:58 | 日記
東日本大震災と原発事故から3年半。
広島の土砂災害からは一カ月経ちました。
広島では、最後の行方不明者がみつかりました。
福島県内での行方不明者は204(22日現在)人です。
ただただ合掌するのみです。

愛する家族・友人・知人を失った痛みや苦しみは、容易には癒されません。
大切な人の「死」だけでなく、事故そのものも受け入れたくないことなのです。
まして、行方不明という宙吊りの苦しさは、他から慮ることなどできはしません。
『露の世は 露の世ながら さりながら』(小林一茶)。

23日のテレビ小説「花子とアン」の中で、花子の夫・英治が、
『子どもを失った悲しみは、時間が癒してくれるものじゃない………自分が乗り越えなくちゃぁ』
と言っていました。
『自分で乗り越える』
でも、これが出来ないのです。
私の友人は、大学生の息子さんを20数年前に交通事故で亡くしています。
今でも、月命日は、かかさずに お墓へ詣でています。

50年以上前に、私は母を失いました。
苦労の多い人生を歩んできた母でした。
甘えん坊で末っ子の私は、どちらかと言うと親不孝ものだったと思います。
あの時の思い・痛み。
明日を生きて行けるだろうかと………。
なぐさめなど聞きたくもなく、ただ一人 うずくまっていたいだけでした。

21日の教会礼拝。
説教題は『もう泣かなくともよい』(ルカによる福音書7章から)でした。
母のことを思い出しましたが、母への想いは、もう「悲しみ」を連れて来ません。
やさしさや、懐かしさだけを伴なって やって来ます。
牧師先生は、「ヨハネの黙示録」からも引用なさって語られました。

《ヨハネの黙示録21章 3~4節》
………神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからからである。

なぐさめの言葉は、「悲しみ」を癒してくれません。
「悲しみ」には、寄り添ってくれる人がほしいだけなのです。

昨日は お彼岸の中日。
義母のお墓参りへ行きました。
帰りに少し贅沢を。
コーヒー、一杯、〇〇〇円。
                                  〈ゴマメのばーば〉
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