ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

「応分の負担」続きです。

2014-09-06 08:11:26 | 日記
一昨日のブログに、高齢者の「応分の負担」について記しました。
その続きとして2012年5月、H紙に載せたエッセーを再掲いたします。

『若葉が柔らかなのに』
介護関係の講演会で、八十歳をこえた方がリストカットをはかったという話を聞きました。
若者や壮年世代の自殺も、ニュースが報じられる度ごとに暗い気分に陥りますが、八十歳の方の
リストカットとなると、これもまた切な過ぎます。

事例の高齢者には、実子が何人かいたそうですが、子育てのさなかにある子ども達に、負担を
かけたくないという思いからの自死だったとのことでした。
親の立場にしてみれば、自分が生きているということ、生き続けていることで、わが子や孫達に
犠牲を払わせてしまうと考えることは、何ともやりきれない思いでしょうし、私も高齢者世代に
属する親であり、「おばぁ」でもあるだけに、その辛さや哀しさが身に沁みる様な気がしました。

『姥捨山』という伝説が各地に残されています。
哀しい伝説です。
生産性の低い村社会で、一定の数の人間しか生きられないとすれば、
老いた者たちが去って行くほかはなかったのでしょう。

昔むかし、姥捨山に詣でたおじぃや、おばぁは、この世に別れを告げるとき、薄れて行く意識の中で、
何を思い、何を祈ったのでしょう。
幼いもの達が、元気に育つ姿を夢みたのでしょうか。
まだ村に残っているおばぁや、おじぃのことを思い出したのでしょうか。
梢の先に架かった弓張り月、遠くを流れる谷川の音、風の声。
それとも、若かったころ買って貰った晴れ着の花模様。
早苗の済んだ田んぼを渡る涼やかな風。
祭りの太鼓。

お山に入ってすぐに雪が降り積もると、人々は、詣でたおじぃや、おばぁを幸せ者と称したそうな。
失われて行く感覚の中で、手足に積もる雪の冷たさだけが、確かなものだったのでしょうか。

今、平成二十四年。
リストカットしたおばぁの末期の目に映ったものや想いは何だったのでしょうか。
平成の姥捨山で、おばぁは何を想い、何を願い、何を祈ったのでしょう。

私には、わかりません。
また、「親不孝者が!」などと、子どもたちを責めることなども出来はしません。
親を背負うことの出来なかった悲しみの重さを、子どもたちも負い続けているに違いないの
ですから。
平成の姥捨山へ、背負われることさえもなく、独り旅立たせてしまったのは、私であり、
私達であり、社会全体でもあるのでしょう。

いつの時代でも、人は、人々は、物語を紡いできました。
哀しい事実の傷口から血が流れ出さないようにと、姥捨山は死へ赴く山ではなく〈詣でる山〉
と名付けられたのでしょうか。
平成のおばぁが、リストカットで逝った山は〈詣でる山〉とさえ名付けられる事もないのです。

作家の遠藤周作氏は、
『人間がこんなに哀しいのに、主よ、海があまりに碧いのです』
(遠藤周作「沈黙の碑」から)と、言っています。

《若葉がこんなに柔らかで、風が光っているのに、人は、哀しいのです》
私は、独り、そう呟いています。
                                   〈ゴマメのばーば〉
コメント
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