散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

在来の敵・現実の敵・絶対の敵~「パルチザンの理論」

2011年06月18日 | 国際政治
先の二つの記事に示したように、「正義の戦争」は“絶対の敵”を介して「ジハート」と結びつく。
5/7付け 「米国の戦争観」と「正義の戦争」
5/28付け ビンラディン氏のジハートと“絶対の敵”

表題の三つの敵“在来の敵・現実の敵・絶対の敵”は、カール・シュミット『パルチザンの理論』(新田邦夫訳 福村出版1972)に展開されている。永井陽之助氏は編集したアンソロジー「現代人の思想」の一つ、『政治的人間』(平凡社1962)の第二論文として取り上げた。全体で9篇の論文を取り上げた本書には、氏による「解説 政治的人間」が付けられている。

しかし、これは単なる解説ではない。現代の政治思想家、あるいは政治理論家のなかから、永井氏は自らの政治思想の形成に影響を及ぼした9名を選んだ。当然、その解説は、現代政治を切り取る永井氏の世界観が表現されているはずだ。それは「Ⅰ政治の極限にひそむもの」「Ⅱ秩序と人間」「Ⅲ政治的成熟への道」の章立てに表されている。これについては、別途、論じたい。

『パルチザンの理論』は「Ⅰ政治の極限にひそむもの」の中に配置されている。表題に書かれた“在来の敵・現実の敵・絶対の敵”について「解説 政治的人間」のなかで永井氏は次のように『パルチザンの理論』を引用する。

在来の敵
王朝時代の戦争における敵である。戦争は、外交目的のゲームであって、兵士はもっぱら傭兵からなる。民族感情、愛国心を欠く兵士にとって、敵は憎悪の対象ではない。一定のルールのもとで行われる決闘に近い。従って、極めて人道的である。

現実の敵
フランス革命によって触発されたナショナリズムを基盤に、人民戦争の形態で芽ばえ始め、フランス軍に対するスペインのゲリラ戦で明確な形をとった。現実の敵イメージは、激しい憎悪を、戦闘は過酷さを伴った。

絶対の敵
侵略戦争が悪とされ、正義の戦争という観念が登場し、不戦条約などで、戦争の禁止と犯罪化が始まると共に不可避的な敵イメージである。核兵器の出現は目的の道徳的神聖化と敵憎悪のエスカレーションを伴う。核兵器の使用に価する敵は殲滅すべき絶対の敵となる。
更に、スターリン、毛沢東の革命理論は、文明の敵、人類の敵、階級の敵、民族の敵という“絶対の敵”概念を育てあげる。

近代日本の戦争では、日清戦争後の三国干渉でナショナリズムを触発され、日露戦争においては、日比谷焼打ち事件、バイカル博士の登場という形で、銃後の領域においてナショナリズムを炊き上がらせた。一方、実際の戦闘では、乃木将軍とステッセル将軍との「水師営の会見」にあるように、“在来の敵”との戦闘を保っていたようだ。

しかし、太平洋戦争になると、「鬼畜米英」の掛け声がかかる。これは神風特攻隊、人間魚雷などの自爆攻撃を兵士に強いる概念にもなったし、沖縄戦での民間人の悲惨な抵抗戦にも繋がったはずである。アメリカもまた、空襲、原爆を落とし、民間人の大量殺戮をいとわず、効率的に正義の戦争を遂行していた。両者ともに、現実の敵から絶対の敵へイメージを膨らましての戦いであった。







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