散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

「絶対の敵」の必要性~現代の革命的ゲリラ戦

2015年02月15日 | 政治理論
スペイン半島戦争でのゲリラ戦を嚆矢として、現代の革命的ゲリラ戦へと繋がることは、カール・シュミット「パルチザンの理論」(1963)の指摘である。
 『現代ゲリラ戦の起源、19世紀初頭の半島戦争150205』

この著作は4年前弱に「敵概念」の枠組、特に絶対の敵の説明で紹介した。
「絶対の敵」は、侵略戦争が悪とされ、正義の戦争という観念が登場し、不戦条約などで、戦争の禁止と犯罪化が始まると共に不可避的な敵イメージとして現れた。核兵器の出現は目的の道徳的神聖化と敵憎悪のエスカレーションを伴う。核兵器の使用に価する敵は殲滅すべき絶対の敵となり、「在来の敵」「現実の敵」と区別される文明の敵、人類の敵、階級の敵、民族の敵になる。
 『在来の敵・現実の敵・絶対の敵~110618』

上記の著作は、永井陽之助が編集した『政治的人間』(平凡社1968)の第二論文として取り上げた。この本には、氏による「解説 政治的人間」が付けられ、そのなかで、次のように云う。

「パルチザンの存在様式の仕様は、以下の4点で、
1)非正規性
2)高度の遊撃性
3)政治的関与の深さ
4)土着性・防御的性格」
更に敵概念の新しさ、「絶対の敵」が加わる。」

「敵への無条件降伏要求という形で終結する第二次世界大戦の様な全面戦争では、平和条約は、敗者に対する勝者からの有罪判決という性格を帯びる。そこでは東京裁判で明らかな様に「犯罪者としての敵」概念が登場する」。

「19世紀の唯一の全面戦争であった米国南北戦争が敗者たる南部に対する無条件降伏で終わったことに象徴される様に、伝統的な在来型戦争の中に「内戦」の論理が無制限に浸入し始めてくる」。

これを逆に言えば、「絶対の敵」と規定すれば、どのような残酷なことでも、行って良いとの論理を作ることもできる。
政治的イデオロギーの終焉という説は、確か、ダニエル・ベルが1960年代に言い出したことで、現代では、フランシス・フクマヤが後を継いでいるかのようだ。しかし、代わって民族的・宗教的な主張が「絶対の敵」を生み出している。

4機の飛行機をハイジャックし、うち2機がニューヨークの世界貿易センタービルに突入、見ず知らずの市民約3千人を死に至らしめた2001/9/11の同時テロのすさまじさは、「絶対の敵」概念によってのみ説明可能である。

更に、問題は残虐性を帯びた人間がその組織の中で浮かび上がらせることだ。ナチスドイツは精神異常者まがいの人物が多くいたのも、故無しとしないのだ。

しかし、これはパルチザンの様式である「4)土着性・防御的性格」から著しく逸脱する。何故なら、「絶対の敵」とは極めて抽象的な概念であり、現代の通信・交通を駆使すれば、どこにでも攻撃可能になるからだ。

かくて、「絶対の敵」の象徴的な心臓部を攻撃することによって、ビンラディン個人がアメリカの“正義の戦争”の対象になった。オバマ大統領の『正義はなされた』は、その間の経緯を「正確に、かつ、冷徹に」一言で表している。

イスラム国に関しても、内部での組織的決定はつまびらかにされていないが、強硬派が主導権を握っているように思える。おそらく、「4)土着性・防御的性格」を考える人たちもいるはずである。オバマ大統領は、その絶滅を公言しているが、それと共に、内部分裂を誘う作戦も必要に思われる。

      
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