散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

永井陽之助の政治的人間論~政治への不信は、過信の裏返し

2011年08月18日 | 政治
永井陽之助氏は40年前に出版された『解説 政治的人間』(「政治的人間」所収(平凡社))の中で次のように述べている。
『…現代人の政治への不信は、じつは政治への過信の裏返しであることに気づかない。

すべての社会問題が政治的手段で解決できるという、暗黙の期待があるかぎり、やがて、まったくの個人的状況にわだかまる様々な欲求不満や、疎外感、異和感すらも、「政治の貧困」の罪に帰せられ、政治の世界は不断に非合理的エネルギーの侵入にさらされることになる。

それは逆から言えば、社会生活と個人生活のすみずみまで、国家権力が無制限に侵入してくる結果を招くことを意味している。…』

ここでは“政治的人間”と“社会的人間”が対比されている。

『…政治や政治家という存在は不要であり、そんなものがなくとも社会問題の解決になんの支障があるだろうかと疑問をもつ。

…だが、政治問題と社会問題の区別を廃棄し、本来の政治的解決と処理にゆだねるべき領域がますます社会化され、ていくことは、逆から言うと、社会問題がますます政治化され、現代の複雑な利害の、気の長い、迂回した調整よりが、単純な、技術的解決、つまり権力による問題解決に短絡されやすい傾向を意味しているのだ。

近代の合理主義が、確実性と完全制を問題解決のめやすとする限り、不可避的に生じる危険な傾向なのである。

それは、制度よりも機構を、政治よりも行政を、指導よりも管理を、権威よりも操作を、伝統よりも技術を、説得より実力を尊重する傾向をもつ。」

ここでは、現代の“社会的人間”の優位に対して“政治の復権”を主張している。

社会的人間とは?との問いがあるだろう…この論文の冒頭、キューバ革命の雄、フィデル・カストロの言葉を引用している。
-われわれは政治家ではない。われわれは、政治家を駆逐するために、われわれの革命を実行しているのだ。われわれは社会的人間である。これは社会革命なのだ。-

以上の紹介でもわかるように、永井陽之助氏の洞察は、40年前の現代から、大震災によって顕わにされた今の現代に至るまで、この世界のありようを鋭く射抜いている。

今の現代は複雑な利害の絡み合いが、ますます進んでいる。40年前の高度成長時代はパイの分けあいで進んでいた。しかし、今の現代は、開発途上国での、世界的人口の爆発的増加、ロシア、中国そしてアジア諸国を中心とした新興国の経済成長、先進諸国での高齢化人口の増加と公的債務の増加という重層的な環境の変化がある。

既得権益を解放しながら、社会の進化を図っていくことは困難を極めている。権力による問題解決が“最終的解決”に至らないとも限らない。
(この点について『二十世紀と共に生きて』(「二十世紀の遺産」(講談社)の「結び」を参照。)

大震災以降、あるいは民主党政権が沖縄問題でボロを出して以降、更には小泉政権終了以降、政治への不信感は極めて強くなったように報道されている。この不信感は今に始まったことではなく、大衆民主主義社会の特徴であろう。

その意味で、首長の権限が強い地方自治体の政治は注目に値する。阿久根市・竹原市長の独善的な手法は、おそらく今でもある程度の支持を集めているだろう。大阪府・橋下知事は、「君が代を歌う条例」「職員をクビにできる条例」と立て続けに権力による解決を目指す方向を打ち出している。

これは永井流でいえば、“現代大阪のカストロ”を目指す動きと理解できるであろう(関西、日本への展開を狙う?)。

なお、『解説 政治的人間』は次の3章からなる。間欠的になるが、順次、紹介していきたい。
「第1章 政治の極限にひそむもの」
「第2章 秩序と人間」
「第3章 政治的成熟の道」






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