東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

佃大橋~佃島(1)

2011年10月10日 | 吉本隆明

佃大橋西詰から佃島 佃大橋西詰から佃島 佃大橋から隅田川上流 佃大橋から隅田川下流 前回の佃島渡船の石碑のところから階段で佃大橋の歩道へ上る。一枚目の写真はそこから佃島側を撮ったもので、歩道がまっすぐ延びている。二枚目の写真は階段を上る前に佃島を撮ったものである。

上流側の歩道を佃島方面へ歩くが、上流の眺めがよい。三枚目の写真のように、橋の中程から中央大橋が見え、その向こう遠くにスカイツリーが見える。下流側には、四枚目の写真のように、勝鬨橋が見えるが、もうかなり遠くなっている。

隅田川は川幅が広いだけあって、川岸近くに高層ビルが建っていても、眺望がよい。東京の街中では見られない風景である。たまにはこういった広々とした風景のところを歩くのもよい。周りの風景は人工的だが、さわやかな風も吹くし、さらに、余りにも大量であるが、水もある。そんなことを感じながら歩いている途中、大型トラックが通ると、橋がかなり上下に揺れる。

佃大橋から佃島佃大橋東詰から湊三丁目佃島から佃大橋佃島から上流側 やがて佃島が近くなってくる。一枚目の写真は佃大橋から撮った佃島、二枚目、三枚目は橋を渡ってから対岸を撮ったもの、四枚目は佃島の防波堤付近を撮ったものである。

このあたりにくると、吉本隆明の「佃渡しで」というよく知られた詩を思い出してしまう。

佃大橋ができて佃渡しが廃止になったのが昭和39年(1964)8月で、この詩が収められた『模写と鏡』(春秋社)の「あとがき」の日付が同年11月5日である。佃大橋ができかかるころ、娘と二人で佃島に佃渡しで来たときの詩であるという。


佃渡しで

佃渡しで娘がいった
〈水がきれいね 夏に行った海岸のように
そんなことはない みてみな
繋がれた河蒸気のとものところに
芥がたまって揺れているのがみえるだろう
ずっと昔からそうだった
〈これからは娘に聴えぬ胸のなかでいう〉
水はくろくてあまり流れない 氷雨の空の下で
おおきな下水道のようにくねっているのは老齢期の河のしるしだ
この河の入りくんだ堀割のあいだに
ひとつの街がありそこで住んでいた
蟹はまだ生きていてそれをとりに行った
そして泥沼に足をふみこんで泳いだ

佃渡しで娘がいった
〈あの鳥はなに?〉
〈かもめだよ〉
〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉
あれは鳶だろう
むかしもそれはいた
流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)を
ついばむためにかもめの仲間で舞っていた
〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉
水に囲まれた生活というのは
いつでもちょっとした砦のような感じで
夢の中で堀割はいつもあらわれる
橋という橋は何のためにあったか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあった

〈あれが住吉神社だ
佃祭りをやるところだ
あれが小学校 ちいさいだろう〉
これからさきは娘に云えぬ
昔の街はちいさくみえる
掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいって
しまうように
すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かった距離がちぢまってみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
いっさんに通りすぎる


佃の渡しで「現在」と「過去」が交差する。「現在」しか知らない娘によって「過去」への回想が誘発され、月島生まれ新佃島育ちの詩人は失われた風景へと還っていく。河、蟹、泥沼、堀割、橋、欄干・・・

眼の前の風景から過去がよみがえる。掘割と橋と欄干は少年が発見した悲しみ処理装置であった。そこから身をのりだして流れたが、それでも残った悲しみが掘割・橋・欄干とともにうかび上がる。記憶の中の風景が感情をよびおこし、情景の中にズームアップされるかのようである。

眼の前の風景とともに記憶の中にある街はちいさくなる。ちいさくなった距離や風景は過去だけでなく、その未来である現在を暗示する。過去から現在への歩みをふりかえる。むかし遠くてわからなかったことがわかる。すべてを知ってしまった詩人は、虚無的なところに陥らず、悲しみの風景をうちにひめながら、なお力強く、「生きてきた道を」「いま」「いっさんに通りすぎる」。
(続く)

参考文献
「吉本隆明全著作集1 定本詩集」(勁草書房)

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