小学生の頃は野球少年であった。
当時、高校野球の甲子園代表を決める東京都大会は、その大詰めの準決勝、決勝を神宮球場で行っていた。確か3年生の時、初めて父親に連れられ、王選手が早実の投手として、そのマウンドに立っていたことを覚えている。
5年生の時も、それまでと同じで親に連れて行ってもらったのだが、小学生の料金が無料とのことでバックネット裏での観戦になった。試合そのものは覚えていないが、終わって出た処が丁度球場の正面玄関であった。いつもの内野席でみていたら別な出入口を使ったであろう。
ブラブラ歩き始めた道の向こう側に、綺麗なコンクリート建ての建物が何か学校風に立っていた。私が聞いたのかどうか覚えていないが、父親が「青山高校で、都のモデル……だ」と教えてくれた。“モデルスクール”と言ったのか、“モデル校舎”と言ったのか、これも今となっては定かでない。
しかし、校舎と言えば「木造2階建て」しか頭に浮かんでこない小学生にとって「すごいな!」という印象を持ったことは確かである。調べてみると、青山高校の校舎は昭和33年5月に竣工し、その時は34年だから真新しく、その辺りでは際だっていたに違いない。
おそらく、ある事件がなければ青高生(自らの高校をよぶときの教師、生徒の用語)になった時、感動をもって小学生当時を思い起こしていたはずである。中学校に上がる直前、その中学校の校舎が火事で一部燃えてしまい、その後、跡地に新校舎が建ったのだ。
新校舎は当然、光り輝く?コンクリート建てであったが、1学年、12クラス、1クラス60名弱、一つ上の世代は13クラス、という団塊世代は、3年生で新校舎に入り、ようやくその恩恵を満喫できるようになったのだ。勿論、それ以前にも、職員室は新校舎のなかなので、用事にかこつけて、入ったことはあった。しかし、生活してみると、汚れている処も少なく、特にトイレのきれいなことが際だっていて、うれしかった。
青高に入ってみると中学校の新校舎の方が綺麗でいいな、程度の印象しか持てなかったのもやむを得まい。今、幻想のように浮かんでくる青高校舎は、実は小学生のときにみた新築建物のイメージで、現実に高校生活を送った校舎のリアリティはない。
しかし、2年生までのサッカー部を中心とした活動と、3年生での受験に集中した勉学とが、それぞれ思い出されるのは、自らを燃焼させたことに依るのだろう。青高生になって中学時代よりも一層、自らのことを意識したのだろうか。
人間の記憶は、時間軸に沿って構成されているのではなく、過去はすべて同じ過去で有り、その中で印象深い事象が記憶のなかから読み出されるのだろう。人間は時の順序で自らを構成しているわけではないとの思いは、この記憶に由来する。
しかし、このことに気が付いたのは、いつのことだっただろうか。だが、この年になってようやく小学生時代の父親との思い出が浮かんできたのは、実はサッカー部OB会の存在を介してである。
筆者は知らなかったのだが、平成15年6月7日に「青高サッカー部OB会設立総会」が渋谷東部ホテルにて開催されていた。何かの拍子に青高を「ググって」みると、そのOB会のホームページに到達した次第だ。
何と!と感激して、幹事の方に連絡をとり、間近のOB会に出席できた。会場は青山高校、グランドでサッカーに興じた後、教室でOB会となっていたのだが…そのとき、校舎は一変して“新築”されていたことも知った。
そうか、すでに50年近く経っている。タイミングとしては当然、と何か新しいものに期待感を持って、現地へいってみた。しかし、その新校舎は、新しくはあるが、際だっているとは感じられない。回りに、或いは東京全体に種々雑多な新築建物ができているため、都立高校の校舎程度ではデザインとしての新しさを感じないのかもしれない。
また、それと共に、気にもしていなかった旧校舎が、無くなったという喪失感が湧いて来るのも禁じ得なかった。だが、この喪失感によって思い出が浮かんできたとしたら、それはサッカー部での活動がOB会設立によって、呼び起こされたためであろう。
ともあれ、OB会設立に努力されたOB諸氏のお蔭だ、と感謝せねばなるまい。
(2006/1/2初稿)
当時、高校野球の甲子園代表を決める東京都大会は、その大詰めの準決勝、決勝を神宮球場で行っていた。確か3年生の時、初めて父親に連れられ、王選手が早実の投手として、そのマウンドに立っていたことを覚えている。
5年生の時も、それまでと同じで親に連れて行ってもらったのだが、小学生の料金が無料とのことでバックネット裏での観戦になった。試合そのものは覚えていないが、終わって出た処が丁度球場の正面玄関であった。いつもの内野席でみていたら別な出入口を使ったであろう。
ブラブラ歩き始めた道の向こう側に、綺麗なコンクリート建ての建物が何か学校風に立っていた。私が聞いたのかどうか覚えていないが、父親が「青山高校で、都のモデル……だ」と教えてくれた。“モデルスクール”と言ったのか、“モデル校舎”と言ったのか、これも今となっては定かでない。
しかし、校舎と言えば「木造2階建て」しか頭に浮かんでこない小学生にとって「すごいな!」という印象を持ったことは確かである。調べてみると、青山高校の校舎は昭和33年5月に竣工し、その時は34年だから真新しく、その辺りでは際だっていたに違いない。
おそらく、ある事件がなければ青高生(自らの高校をよぶときの教師、生徒の用語)になった時、感動をもって小学生当時を思い起こしていたはずである。中学校に上がる直前、その中学校の校舎が火事で一部燃えてしまい、その後、跡地に新校舎が建ったのだ。
新校舎は当然、光り輝く?コンクリート建てであったが、1学年、12クラス、1クラス60名弱、一つ上の世代は13クラス、という団塊世代は、3年生で新校舎に入り、ようやくその恩恵を満喫できるようになったのだ。勿論、それ以前にも、職員室は新校舎のなかなので、用事にかこつけて、入ったことはあった。しかし、生活してみると、汚れている処も少なく、特にトイレのきれいなことが際だっていて、うれしかった。
青高に入ってみると中学校の新校舎の方が綺麗でいいな、程度の印象しか持てなかったのもやむを得まい。今、幻想のように浮かんでくる青高校舎は、実は小学生のときにみた新築建物のイメージで、現実に高校生活を送った校舎のリアリティはない。
しかし、2年生までのサッカー部を中心とした活動と、3年生での受験に集中した勉学とが、それぞれ思い出されるのは、自らを燃焼させたことに依るのだろう。青高生になって中学時代よりも一層、自らのことを意識したのだろうか。
人間の記憶は、時間軸に沿って構成されているのではなく、過去はすべて同じ過去で有り、その中で印象深い事象が記憶のなかから読み出されるのだろう。人間は時の順序で自らを構成しているわけではないとの思いは、この記憶に由来する。
しかし、このことに気が付いたのは、いつのことだっただろうか。だが、この年になってようやく小学生時代の父親との思い出が浮かんできたのは、実はサッカー部OB会の存在を介してである。
筆者は知らなかったのだが、平成15年6月7日に「青高サッカー部OB会設立総会」が渋谷東部ホテルにて開催されていた。何かの拍子に青高を「ググって」みると、そのOB会のホームページに到達した次第だ。
何と!と感激して、幹事の方に連絡をとり、間近のOB会に出席できた。会場は青山高校、グランドでサッカーに興じた後、教室でOB会となっていたのだが…そのとき、校舎は一変して“新築”されていたことも知った。
そうか、すでに50年近く経っている。タイミングとしては当然、と何か新しいものに期待感を持って、現地へいってみた。しかし、その新校舎は、新しくはあるが、際だっているとは感じられない。回りに、或いは東京全体に種々雑多な新築建物ができているため、都立高校の校舎程度ではデザインとしての新しさを感じないのかもしれない。
また、それと共に、気にもしていなかった旧校舎が、無くなったという喪失感が湧いて来るのも禁じ得なかった。だが、この喪失感によって思い出が浮かんできたとしたら、それはサッカー部での活動がOB会設立によって、呼び起こされたためであろう。
ともあれ、OB会設立に努力されたOB諸氏のお蔭だ、と感謝せねばなるまい。
(2006/1/2初稿)